追記:インターナショナルスタイルは機能主義ではない

タウトについて調べているときに、機能主義についての革新の論稿を見つけました。「美しきもののみ機能的である」という丹下健三の言葉を紹介しました。けれど美は機能のみに宿るのではないのであって、それ以上にキュービックとするとかプロポーションとかの原則(要点)を満たさなければならないのでした。しかも機能の意味が広すぎて美は機能ですらなかったとは。

紹介の論考はインターナショナルスタイルが機能を形にしたものでないこと、コルビュジェのサボワ邸に示されるようにインターナショナルスタイルはフォルムの比例の美しさが目指されてデザインされたものであること。CIAM第1〜3回の会議で明確に決着できなかったために、その後の機能と形態の論議が混乱を極めたことが書かれている。(2o22o1o8 mirutake)

         
   ドイツ表現主義の建築 編者SD編集部 鹿島出版会1994 長谷川章著
    90有機的建築の理論 表現的機能主義 建築における機能とは何か

>>機能的であるということは,近代建築の本質にとって不可欠な論拠であった。 しかし視点を変えてみれば機能的でない建物など何時いかなる時代に見出せるというのだろうか。 どの建物にも最低の機能は備わっていたはずであり,20世紀に入って争点となったのはあくまでそれに名を借りたく装 飾一無装飾>についての論議であり,CIAMの出現は過去の忌わしい装飾としての様式建築を一掃することにその目的があったといっても過言ではない。 当時の最大の誤解は「形が機能に従うならば,効率の良い機能は自動的に美しい」といった解釈である。 それ故反装飾としての機能主義の主張は逆においては必ずしも真ではなかった.。「形が機能に従うならば,少なくとも装飾は生まれてこない」と言うのが精一杯であったといえる。 従ってCIAMでコルビュジ エが主張したインターナショナル・スタイ ルはこうした意味においても機能主義では ない。 コルビュジエの美的純粋性は古典主義に根差している。 彼はそもそもベーレンスの事務所でミースやグロピウスと共にシンケルのプロポーションを学んでいたのである。 サヴォイ邸はプロポーションにより決定されたフォルムの美しさの追求された結果であり,機能について語られた建築ではないのだ。<<

>>建築における機能について考えるために, 第1〜3回のCIAMの会議上, コルビュジェの説く<Architektur>としての建築 と, ドイツを代表したフーゴー・ヘーリンクの説く<Bau>としての建築の概念の齟齬について着目してみよう。 建築における機能を《不特定多数》の利用者を対象とするか,《特定少数》を対象とするかによってその意義は大きく異なってくる。 一般的にいわれる機能主義とは,最大多数の共通項を問題の対象としてその解決をもたらす手法の総称であり, コルビュジエの主張した <Architektur> がこれに当る。 そこには多数のための利益を代表とする客観的事実の集積としての建築が生まれる。 しかし後者の場合,かなり条件は異なり,前者では浮上しなかった様々な因子個人・ 民族・地域性・伝統・自然――が問題とな ってくる. この場合機能という概念は単に目的というひとつの因子を意味しない。 もしあらゆる特殊な課題に対してその目的を厳密に処理するならば,前者のような客観的な成果とはまさに正反対の,全く主観 的な処理がされることを意味している。 この時ひとつの機能とひとつの形態が一対一に対応することなどありえない。一般に機能に対する要求は複雑で,形態を考えた時,その要求は諸因子において相反するのが通例である。<Bau>の概念に内在されたこの不合理こそ,CIAMの席上インターナ ショナル・スタイルを代弁するコルビュジエをヘーリンクが論破できなかった原因でもあった。<<

>>ペーター・ブルンデル・ジョーンズはこうした特定少数を対象にした機能主義を<表現的機能主義>と名づけた。 事実当時の表現主義建築家と目された者の中には機能主義者を自認している者が少なからずいたのだが,建築史上ではユートピアンと共に一括して表現主義者の烙印を押され処理されてきた。 こうした誤認は現代も尾を引き, かのN・ペヴスナーが表現主義者を機能主義者と認めず,一方インターナショ ナル・スタイルの非機能性について言及しなかったことは,後世に渡って多くの誤解を生む原因となった。<<



ーーーー追記ー2o22o2o2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  ここに書かれている事実については未知なことばかりで、とても着いてゆけない詳細なものです。が、未知の事実に圧倒されないで、指摘されている機能にまつわる結語に着目できれば共感できることばかりでした。

  冒頭の「機能的でない建築はない」だからどの機能を形態化したのかが明かされなくてはならないが、それは隠されている。というよりも、近代建築家たちの形態(フォルム)至上主義によってデザインが決められていたことはハッキリ取り出された。

>> 一般的にいわれる機能主義とは,最大多数の共通項を問題の対象としてその解決をもたらす手法<<
集合住宅のプランが、みんなの共通の生活像を抽出することが目指されていた。普遍的なものを提示することだった。だから同じものを建設することで良かった。ところが実際にできてみると退屈な住宅街が出現してしまった。これは豊かさとは違うものだと気づかされた。これがインターナショナルスタイルの限界ということだった。

機能という言葉の内容が広大なもので、機能主義から多くの展開がありえた。当時「表現」さえ機能であった。


           参照情報
        ドイツ表現主義の建築 大型本 1989/6/1 amazon.co.jp
        ドイツ表現主義の建築 - ハモニカ古書店
        長谷川 章 (ハセガワ アキラ) HASEGAWA Akira
        室建を支える人々


        デ・ステイル(ウィキペディア)
デ・ステイル (De Stijl) は、1917年にテオ・ファン・ドースブルフ(英: Theo van Doesburg, 1883年 - 1931年)がオランダのライデンで創刊した雑誌、及びそれに基づくグループの名称。「デ・ステイル」とはオランダ語で様式(英語:The Style)を意味する。
        能主義(建築)(ウィキペディア)
建築における機能主義(きのうしゅぎ)は、建物はその建物の目的に基づいて設計されるべきであるという原理である。このような主張は、一見するよりも自明なものではなく、建築家にとって、特に近代建築に関して、混乱と論争の種である
        インターナショナルスタイル(ウィキペディア)
最初にヴァルター・グロピウスが指摘(バウハウス叢書第1巻・『国際建築』・1925年)。のちにニューヨーク近代美術館での展覧会において、フィリップ・ジョンソン、H・R・ヒッチコックが定着させた(『インターナショナル・スタイル:1922年以降の建築』)。
        要素主義(ウィキペディア)
要素主義(ようそしゅぎ、elementalism、エレメンタリズム)とは、テオ・ファン・ドースブルフが、新造形主義を乗り越えることを目的として、1920年代半ばに主張した美術理論。1920年代半ば以降のデ・ステイルの指導理論ともなった(雑誌「デ・ステイル」において主張された)。
        CIAM(ウィキペディア)
        モダニズム建築(ウィキペディア)
        ニューヨーク近代美術館(MoMA)(ウィキペディア)
        ヴァイセンホーフ・ジードルング(ウィキペディア)
ヴァイセンホーフ・ジードルング(Weisenhofsiedlung)は、1927年、ドイツ工作連盟主催の住宅展覧会で、シュトゥットガルト郊外ヴァイセンホーフの丘に建設された実験住宅群である。ドイツを中心に17人の建築家が参加し、モダニズム建築の実践の場となった。ミース・ファン・デル・ローエが全体計画を立て、ミース、ル・コルビュジエ、グロピウス、アウト、タウト、シャロウンらの設計による住宅が建設された。


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ーーー 室内空間が天井から外部への流動 ーーー

最近のホテルから 丹下健三自邸 レーモンド自邸まで



〒605-0826 京都府京都市東山区桝屋町360
パーク ハイアット 京都  2020 01
hyatt.com
                   設計;竹中工務店設計部

丹下健三自邸  1953
                   設計;丹下健三、田良島昭

レーモンド自邸  1951
                   設計;アントニン・レーモンド

(明日館教室 1926)
                   設計:フランク・ロイド・ライト 遠藤新


                  photo by net
                   けんちく激写資料室


あらためて丹下健三自邸と並べてみるとパーク ハイアット京都客室のシンプルさに気付かされます。丹下邸の欄間を省略してしまっています。障子の上框隠しと言う有りえないシンプルさです。
そこで思いが浮かんでくるのは、この設計者は丹下自邸をよく研究していて、それを超えようとこ言う構成を取ったとも思えてくるのでした。

 
パーク ハイアット京都客室   右;丹下健三自邸 居間から外を眺める

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2018年森美術館で丹下自邸の1/3模型の展示がありました。
不覚にも私は2階床まではRC造とばかり思っていたので、イメージが狂いました。また模型が構造模型であり、仕上げがないので二重にイメージが狂ったということもあります。良く見直してみようという切っ掛けをもらいました。
丹下自邸の天井も斜め天井で、そのまま外へと連続し、軒天井になるというものでした。前回は床面の庭への流れが和風作法として取り上げ、バルコニー手摺も床面が抜けてゆくもので、そこには浮遊感があるのでした。

              「建築の日本展:その遺伝子のもたらすもの」森美術館 2018
              丹下健三自邸 模型 1/3 制作監修:森美術館 野口直人
              制作:おだわら名工舎 丹下健三自邸 1953








(丹下自邸の発表当時も妻側立面写真は無い。ここに木造構造模型ではあるが、木材の構成は良く分かる。木造だから和風そのものに見えるが、小屋組みが和小屋ではなく、登り梁構造となっている。登り梁は柱を挟む二枚梁となっている。妻側だけは柱が二重に重ねられているので、柱勝ちの構成であることが見える。)


     今回の丹下自邸の1/3模型を見てーー
こんな構造ばかり見えるものだったのか?いやいやと言う感じになった。冷静になって吉村の軽井沢の山荘が2階床までがRC造だから、丹下邸もRC造ピロティと思っていたのだが。それにしても構造材ばかりの模型で、仕上げ材が省略されている構造模型だから、丹下邸のイメージが違いすぎる。屋根が切妻じゃないか。こんな丹下邸見たことない。片流れ又はフラットルーフと思っていたから。またこの妻側の構造の掛け方が良く解らない。こんなに大きな低い越屋根風になっているのも良く分からないなー。

          ※14
              丹下自邸1953 南側正面写真

          ※14
              丹下自邸1953 南側正面写真 暗部明るく補正 (写真としての見栄えよりも建物の成り立ちが解る暗部に光を)

だったらネットにある写真を懸命に注視して解析していけばよいのだが、写真の陰になっているところが、どういう仕上げ材納まりになっているのか?見えないのでした。いやいや、いつもの通りに暗部補正をすれば良く分かるようになるんじゃないかと!やっと思い付いたのでした。そしてわかりました。(あらためて内部天井が浮いていることに気が付いて、外観写真からもそれが(天井面が)わかるように明るくしてみた。すると船底天井が浮いていることがわかるようになった。凄いなー、ここまで室内が見通せてしまうデザインとは。そしておまけに屋根面も同じように一つの面として構成され、天井と重畳が起こっていることが見えてくる。)

          ※14
              南側(庭)を見る内部写真から

前回書きましたがおさらいしながら、この写真で凄いと思うのはまずは天井ですね。
内部の天井が勾配そのままに、外部の軒天井になって行くのが大変良く分かる造りになってますね。こう言う天井の造り方は初めてなんじゃないかなー。しかも内部用の竿縁天井なのに、そのまま外部の軒天井に続いていってしまうところが凄いですねー。もう一度言ってしまいますが、内部用の竿縁天井が外部用の仕様に変わらないで造っているのですね。これで内部空間の流れがそのまま外へと怒涛のごとく流れてゆきます。勿論そのために欄間がガラス一枚だけで枠も見当たらないという、秀逸な納まりのためにできた見せ方ですね。ガラスを直接天井板に納めてしまった。従来の和風建築では、この天井の単純明快な外への流れが見せられ無かったのです。それは天井廻り縁や欄間鴨居があったり、建具を入れたり、小壁が付いたりしてしまうので、内外がはっきり別れるしかなかったのです。これを見事に解決したのが丹下自邸だったのです。(代々木屋内体育館の窓ガラスをコンクリートに枠無しでそのままはめ込んでシールだけで納めたのと似ています。当時こんなことができるんだと感激したものです。)

>>これを見てくれた丹下自邸が好きだという知人から、もっとこんな見方があるよと文章を寄せてくれました。いろんな見方で密度が上がるのがうれしいですね。
>>天井敷目の目地とガラス溝が合っていることでガラスの存在が消えている。
そこのガラスとガラスの継ぎ部の細部材と竿縁との交点がしびれる納まりになっている。これは真壁造の軸組み構成を破る、天井面の鴨居の省略によって、内外天井の広がる伸びやかさを生んでいる。
内法高さと欄間の高さの按分が絶妙で(欄間フィックスガラスから外に伸びた天井が良く見える)、前記のガラスの存在が消えるのと相まって、軒先までの一枚天井の伸びやかな雰囲気とその外への繋がりが良く感じられる。(2o211114)

こうしてじっくり見てくるとやけに天井が軽快に、浮いて見えてきました。竿縁天井で線が多いものなのに、天井全体が面構成になっているのが解ってきます。天井だけで一枚の面に見せることに成功していると思いますね。

外に出た天井は天井廻り縁だけで止められています。単純明快に納めています。通常はここに鼻隠しとか垂木とかが見えて、ちゃんとした終わり方があるのですが、それらがないので、え?もう外なの、これで終わりなの?と言う感じですね。これが薄っぺらい天井が浮いている感じを抱かせるのですね。凄いと思います。ワンルーム住居であることが天井の広がりを通じてはっきり表現されていると同時に、外へと広がるワンルーム住居を明快に示しえているのでした。

欄間フィックスガラスをたどって行くと、柱があって、柱に直接竿縁や天井板が収められています。なかなか思い切った納まりと思いますが、一般の木造ではありえない納まりです。実はこれは桂離宮の笑意軒なる茶屋の三部屋の続き間の欄間の納まりに使われています。設計者はこれをよく知っていたのですね。でないと余りに変わった納まりと思えて、できないですよね。

  ※16
              桂離宮 笑意軒 欄間の写真

今まで何度も書いてきた通り現代建築にとっては重要項目ですが、畳>濡縁>庭へと言う重畳が成されており、横手摺も濡縁床板から浮かせて床の飛び出し感を確保していますね。床の重畳の流れが三本の横手摺で遮られていて簡単にはできなかったのですね。辛うじて横手摺と床との隙間が、庭へと流れができているということだと思います。ここらあたりは和風の庭への基本作法を守っていますね。

              ※17
                写真を明るく補正していますので、全体としては変に明るすぎる写真になってますが、軒天井に注目してください。

軒天井の終端が100x50平使いで納めて、その上が挟み登り梁の小口、母屋長手、垂木小口、広小舞ではなく成の無い鼻隠しのようですね。それから瓦 と見えていますが、面戸板などの垂木の間をふさぐ部材がなく、小屋裏と言うべき空洞がそのまま見えており、異例の納まりとなっていますね。そのため天井板が浮き上がっている感じが良く出ているのですね。ここから風が吹き込んで越屋根から抜けるという、今で言うパッシブソーラーハウスの在り方を取っているということのようです。天井板がそのまま外気に接っするという構成ですので、夏は涼しく冬は寒いということですね。通常では考えられない納まりです。見えないところで塞いでいるのでしょうか?

(丹下邸の図面はHP探しても1/200位の超簡単な物しかなくって、でもなかなか面白そうなので、ここの軒先から小屋裏あたりを図面化したいと思いますが、何時になるか。)

              ※14

最後にこの写真で特筆すべきは畳に置かれた重心の低い安楽椅子です。
スチールパイプを曲げたのもなので畳にやさしいR面が接することになり、これで畳を痛めないから良いとの判断なのですね。座布団もありますね。(このころ坂倉順三も和室用の座の低い椅子を作っています。建築家たちに和風の床座生活様式を近代建築に取り入れたいという志向性があったということなのです。次の機会に取り上げたいところです。(タウトも日向別邸で、座の低い椅子を取り上げている、という視点を提出しています。※15けんちく探訪)またこの写真を見ていると、タウトが日本建築に憧れ=家具のない生活空間への憧れを思い出してしまう。丹下は無理してそこも狙っていたんじゃないかとさえ思えてしまう。)((ここを書いているとき、ヴァイゼンホーフジードルングのことが書かれたものを読んでいたのだが、そこにタウトや、アウトがビルドイン家具をやっていたというのを読んで、「家具の無い生活」と言った時、丹下はここではテーブルもないとイメージしているが、私は椅子さえもないという意味で使っていたことを意識した。そうタウトも椅子は有ったのではないか?と思ったのです。))

そしてまた驚くのは卓が畳面と同面で設えられていることでしょう。和風の生活作法では畳の上も物を置くテーブルの役割をしますから、畳と同面に卓を設えるのは正攻法ではあります。和風の床座生活様式への問題提起があったとのだと感じます。こういう和風生活様式の提案は他の建築家にはないですね。そしてここだけで終わっていると思いますが。(この後の章で最後にすこしだけ取り上げましたが、丹下は生活機能という言葉に注目していたのです。丹下の機能という言葉は実は生活機能だった?)


                                                     mirutake 2o21o816

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             井上房一郎邸(1953)実はレーモンド自邸を再現した
             (この写真での見所は軒の支え方です。普通は垂木だけで軒を出し、その出は900位です。がレーモンドは登り梁を1200出し、そこから垂木で450出とし、全体で1650出しています。ここまでしっかり日本の夏の太陽に対処しているということですね。)

     次に取り上げるのはレ−モンド自邸です。
この二つの住宅は床の在り方に注目すると、大いに違っており、それは1階と二階建てと言う以上のものです。そもそもレーモンド邸は土足でした。ですから食堂は外部アルコーブ風に設けられ、屋根もルーバーしかないものでした。それは土にできるだけ低く一体と成ろうとする洋風生活だったのです。洋風生活の庭への意識は守られた建物の外が庭でしたが、近代を経ることで(内外一体を経ることで)庭と連続の室内を思考し、土足の生活様式ですから室内からそのままでられる庭へとなったのでした。
それに対し丹下邸は土から可能な限り離れて持ち上げられた床、浮き上がった床と言うよっとりもっと=浮遊する床、空飛ぶ絨毯のように庭へと浮遊する床面と言う=和風の庭への関係仕方がここでも近代を経ることで2階へと持ち上げられた=本質的な違いなのでした。

ところが大変似ているところを見つけました。それはどちらも内部天井面が傾斜とともに軒天井へと連続して外へと出て行っているということでした。

              
              井上房一郎邸(1953)

(井上邸が火災にあってしまい建て直さなければならず、その一年前くらいに建てられたレーモンド邸を気に入っていたので、了解を得てレーモンド自邸(1951)とそっくりに建てられました。プランが東西反転しているのと、夫人の要望で和室が追加され、土足ではなく素足で和風仕様で使われているのでした。)

その軒天井から内部天井を見上げたところです。これを見ていると小屋の組方も丹下自邸に似ているように思います。この登り梁の下に竿縁天井を張ると丹下邸になるのでした。ただし筋交いトラス群を取り払って。

1951レーモンド自邸は和風テイスト(障子など)を感じさせるが、床は低くテラスから150位で、テラスにへばりついていくようだ。これはレーモンドの生活様式が洋風の仕様だったから。ここの小屋組みも和風を感じさせるものですが、レーモンドのオリジナルで、登り梁や筋交い=洋風のものです。ここでは勾配天井が庭へと下がって行くが、建具部分で下がり壁があって、丹下邸のように傾斜天井から外へと空間を導くことができないでいます。内部に包む空間意識は洋風と言うことなのであります。

              
             井上房一郎邸 居間より庭を望む 南側開口の上に下がり壁があり内部空間を包んでくる

※18
     レーモンド自邸の矩計図

小屋組み(屋根を支える構造部材)が屋根勾配なりの登り梁があって、これを軒先の登り梁を方杖で柱に補強するやり方で固め、また柱の反対側(内部側)には挟み方杖として固めてゆく小屋組構造を構成している。構造材が伸び伸びと広がっており、囲まれた空間だが天井は高く吹抜けが気持ちよい。床は木造ではなく、コンクリートベタ打ち直にカーペット敷きとし、地盤から床高が上がらないように、大地に近く(h150)低く構えられている。

※15
     丹下自邸の断面図
丹下自邸はレーモンド自邸の方杖を全て取り去って、勾配竿縁天井を登り梁の下に張った。おまけにその内部の欄間をガラスだけとして、外まで天井と床を延長した、上下内外一体感=浮遊感をデザインした。畳敷きと言うこともあり、重心の低い落ち着いた外へと広がりのある近代和風空間。

 
左側がレーモンド自邸 1951 右側が丹下自邸 1953  (大きさを揃え室内を着色する)

こうして並べてみると小屋組(登り梁構造)は大変似ているのだが、小屋裏空間の考え方が全く違うことが分かる。レーモンド自邸は小屋裏というものが全く無くって、室内に取り込まれている。これは近代建築の理念のシンプルを体現しているものなのだ。けれどこれは先進材料を駆使して断熱効果を高めないと厳しい気象環境ということ。鉄板葺きの下地の杉板12+ソフトテックス12(断熱材)+杉板12となっている。これに対して丹下自邸は天井を張って小屋裏空間を結構大きく取って、空気の量で断熱効果としている。夏を旨とする気象環境に対処する伝統和風小屋裏を体現している。近代のシンプル構法からは外れているが。軒の出(長さ)を見ると、登り梁までが1350くらいでそこから垂木だけで1200くらい出し合わせて1550だからレイモンド自邸が100長いくらいで同じようなものだ。(寸法は概略)丹下邸は登り梁の出を柱で支えており、それを床の片持ち梁が支えている。バルコニーが室内のように囲まれているのが特徴だ。また図面では手摺りだけで中手摺りがない。設計段階ではシンプルにしていた?

     小屋組から天井面の違い
屋根面から 垂木>母屋>登り梁までが同じで、丹下邸はその下に天井仕上げ材が付けられている。
レーモンド自邸は登り梁の下に軒桁がきて登り梁を受けています。そして登り梁と柱を挟んでボルトで固めているのが方杖ですね。
丹下邸では軒桁を付けないで、登り梁が柱を挟むことでボルト留にし、登り梁が下がらない仕口により架構を成立させています。中央の柱に登り梁が左右から4本集中する仕口が大変になっている。登り梁と柱はボルト止めと言う単純さです。けれど軒桁がないゆえに天井が登り梁に直に納まって、かつガラスのみのシンプルな欄間の納まりが可能となりました。凄い工夫と勇気ですね。柱を切り欠いた仕口は有るでしょうが、登り梁を桁に乗せている(レーモンド自邸)のとは安定感がずいぶん違いますね。レーモンドの方杖で固め過ぎるかのような固い構造と、越屋根の束建てに象徴される柔らかい和小屋の感じがする。

丹下邸は大きな越屋根がついていて、これによって小屋裏の民家の様な大きな空気量の確保をして、涼しい夏を目指しているのでしょうか。この越屋根部分にも垂木が掛けてありますが、野地板は張っていないのでいらないと思うのですが。それと母屋の位置=垂木水平面に何やら互い違いに入っているのは水平ブレースのようですが、断面が角材になっています。

丹下邸写真では解読できなかったですが、図面を見ると垂木部の面戸板、登り梁部の面戸板がありますね。ところが写真でよくよく見ても確認できないので、やはりここには無いのかもしれません。実はここは外ですから、入れるならフィックスガラスの位置=内部と外部の境界に真先に入れなければならないから。そこには面戸板がないはずがないです。何故ななら天井裏が外そのものになってしまうから。
越屋根部の垂木部分の面戸板の下の桁下に縦線が一本ありますが、ここに換気口があるのでしょうか?こことセットで妻側に換気口があるものと思われます。拡大すると下枠部分が建具下の水返しの段のように見えます。その下が例のフィックスガラスですね。拡大しても天井面にガラスを嵌め込んであるようには書いてませんね。天井面ラインがガラスによって切り欠かれていない。(実際にはそうではないはずです。)


     床面の比較
丹下邸、この断面は南側で、畳の居間からバルコニーから庭へと、床が滑らかに外へと流動しして行くのが感じられます。これが和風の作法たる流れを2階に持ってきたのでした。滑らか過ぎて雨仕舞は大丈夫か?と言うほどの敷居からバルコニーの板床が滑らかに納められています。床に何か落とすと外へと転がり落ちる仕様です。手摺りは写真から見るのとは違っていて、図面では付いていません。設計段階では付けないつもりだったのかな?(自己体験で、別荘の設計で最上段手摺だけだったが、子供もいるのだからと、現場で付けさせられてしまったことがある。)

     レーモンド自邸の床から庭への流れを見てみましょう。
これもまた立ち上がりなしに一気にテラスペイブへと150くらいの段差で落ちています。ここで注意したいのは室内から庭へと連続空間を作っているので、これは和風かと思いがちですが、庭と言う土と一体を目指しているのですから、これは土足の文化であり、西洋の生活様式です。井上房一郎邸は土足ではなく素足の和風生活様式で使われていますが、原案のレーモンド邸は土足で計画され使われました。和風の生活=床座の生活とは土から離れること、土間から離れる床上の生活を作ることだったのですから。ですから庭を室内から空気の一体感とともに眺める和風の作法を作ってきたのでした。一方近代の洋風生活とは庭と内部床も一体となった土足の生活様式のことでした。これは和風の影響を受けた近代洋風生活様式です。近代以前の洋風は室内と庭とは出入口ドアーでしか繋がらない閉じた室内空間ということですね。

     では天井はどうでしょうか?
床とセットで考えれば大地から浮いた和風の床には水平の天井ですよね。それに傾斜の軒天井と言うのが和風と言うことのようです。
民家の土間床とセットの天井とは勿論小屋架構の見える、垂木の見える屋根下地板の見える傾斜天井のことですね。これが民家風(洋風)と和風との対比と言うことなのでしょうか?今のところ結論を出しかねていますが。
この結論からは丹下自邸は洋風の天井と和風の床で、レーモンド自邸は天井面・床面ともに洋風と言うことになると考え始めました。

     ※13
     パーク ハイアット京都 敷地内にある伝統木造建物群が残されていて、京都の街を一望できる室
     

畳から濡れ縁へと、十分な奥行きを取れていること、手摺がしっかり止めていること、洋家具セットが置かれているので畳「面」が見えないため床の外への浮遊感は起こりませんね。でも床から外部へ流れる濡れ縁と言う和風の作法ではあります。天井が水平で欄間の外に下がり壁があって、軒天井となっているのですねこれが和風の天井面の構成ということですね。和風の構成が良く分かる写真なので載せました。和風の仕様としては水平の天井・欄間・傾斜の軒天という構成なのですね。
ここの欄間障子を開けると軒天井が見えてきます。そうすると水平の天井から傾斜の軒天井と言う構成が和風の作法と言うことになるということですね。
実はパーク ハイアット 京都では客室の天井もいくつかのタイプを作っていて、これと同じように水平の天井からFIXガラス欄間から切り替えて、傾斜の軒天井と言うのもやっているのでした。下の写真の左上にちょっと水平の天井面が見えています。これが水平天井から傾斜軒天井の構成ですね。

     ※13

     明日館教室1926

今回文章を書いているとき、思いついて探してみたら住居系ではありませんが、発見しました。突然の出典ですが、フランク・ロイド・ライトの設計になる目白の明日館教室内部写真です。1926年という時点で天井に開口部が接しています。そこからそのまま外へと軒天井になっています。このシンプルさが達成されていたのです。ロビー邸1906や山邑邸1924では下がり天井になっていて、その下がった天井に開口部が接しているのですが、独特の木製ラインの装飾が邪魔をしており、天井から軒天への連続性は感じられません。そこへ行くとこの明日館教室は天井から軒天井へと空間の流れがすっきりと達成されています。予算が厳しいために装飾が最低限となった効果と思います。そして床面は腰壁に阻まれて外へと流動してゆきません。教室なので内部にまとまった空間を保とうとしているのでしょう。(シュレーダー邸1924、バルセロナパビリオン1928は開口部が天井に接し、内部空間が流動してゆきます。この流動空間の出発がロビー邸とみなされています。)


ここで少しもとに帰って押さえておく必要を感じました。
軽井沢の山荘の奥行のないバルコニーに、そこに人が出るということより居間からの空間の連続性を意味させる作用があるということを掴んだ時に、実はこの外への流動感は和風の濡れ縁に特有のことではないかと感じたのです。現代建築になって、和風とか洋風とかどうでもよい感じになっていますが、この床が浮遊してゆくというのは洋風にはない和風固有の在り方と捉えることがとても大切な和風固有の空間性ととらえることで、建築作品を本質から理解するということになると考えたのでした。反対の概念が土に近く、土足の生活こそ現代も変わらない洋風の在り方です。ですから洋風の反対は和風で、素足の生活は今も変わらず、ゆえに浮いた床であることが本質的なことなのです。この生活様式の違いがデザインの決定的な違いを生んでおり、決定的な違いとして見つめられるようになるのではないか?デザインの基準を見つけられるのではないか?そういう思いから室内の流動する濡れ縁を見つめてきたのです。

では天井です。
天井も床と同じように、室内を外へと流動化しようとする天井作法か?と見てゆかないと本質思考から外れてゆくと思いました。床の濡れ縁が流動化への先端なら、天井の外への流動化の先端は軒天井でしょう。こう捕らえれば丹下邸の傾斜天井も和風の外への流動と捕らえられることでしょう。

今までは床の重畳と言って畳>濡れ縁>庭という床からの流動空間ということにこだわってきました。
今回は天井からの外への流動というのを取り上げました。そうするとライトのロビー邸というのは実は室から室の流動というのにこだわった空間作りだったんだということが明らかになったのでした。ロビー邸の庭への流動というのを扱ったHPを書きましたが、イマイチ日本人には説得力がないということを書きました。柱型+開口+柱型+開口という石造建築の繰り返しの開口の開け方だったからです。天井も折り上げ天井になっていてスーと外に流れてゆかないのでした。
するとこれまでの空間の流動感と言っても実は3つの観点からの造りを検討することが、室空間の在り方の理解を深めることになることが解ったのです。

1)室と室との流動、2)床が外へ流動、3)天井が外へ流動 ということです。

すると和風の空間は1と2が需要項目としてできていることがわかります。3については天井からの下がり壁があったり、軒天井との連続性がなかったりと、夏の日差しをカットする重要な役割はあるのですが、また庭を鑑賞するときに天空光をカットすることで、庭鑑賞を補完する役割から作られており、デザインの重要要素にはなっていないことがわかったのでした。
これに対しライトのロビー邸の後継たちはシュレーダー邸から始まって、バルセロナパビリオンからへと、天井からの室内空間の流動を重視してきました。それが丹下自邸から、パーク ハイアット京都客室へと抽象化が高度に展開しているのでした。


それはロビー邸1906から始まり、シュレーダー邸1924をへてバルセロナ・パヴィリオン1929で平面天井の外への流動空間は完成した。それはロビー邸の天井面構成が段付きの装飾付き水平面であったものから、内外の完全平面の広がりがバルセロナ・パビリオンで一応の完成を見た。そして傾斜天井の外への流動は明日館教室1926にあった。そこから随分時間がたってからだが、ここを傾斜天井で外へと流動させたのが丹下邸1953ということになると思う。このように天井面が外へと向かって流動してゆくのは近代建築の展開によって達成されたものなのだった。

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     ○生活機能と対応する建築空間が美しいものでなければならず、その美しさを通じてのみ、建築空間が機能を人間に伝えることができる、ということを否定しうるものではない。このような意味において「美しき」もののみ機能的である、といいうるのである。(丹下健三) 
     「建築の日本展」の言葉

丹下のこの言葉の文脈が見つかりました。ここを縮めると
     生活機能を人間に伝えることが美である
と言うことになる。これをひっくり返して
     美しきもののみ生活機能的である。
と言うことなのだ。驚きですね、はっきり生活機能と言っていた。いつの間にか生活を省略して機能一般の意味にして
     美しきもののみ機能的である
と言う最後のところだけが独り歩きしたということでした。だから美しい機能の意味が漠然とした意味になってしまったから、何を言っているのかわからないまま(生活(機能)を省略したから)お題目だけが独り歩きしていったということだった。機能でなければ美しくない。機能であることが建築の目標。機能でなければならない。装飾的なものは建築ではない。と
でもそれは必要上機能的でないものにも美があるから、なんでも機能である必要があった。
ころが実はこれがひっくり返ってしまって、美しいものは装飾でも構わないとなってしまうのでした。

     

美しければ何でもよい例として装飾(建築部品装飾扱い)であってもいいわけで、機能の反対語でさえある装飾が近代建築に必要となったのだった。
丹下自邸にしても、香川県庁舎にしても、例えば一例として、挟み梁の小口を繰り返し見えるようにするのは、装飾的に部材を二つ割にしているのであって、機能でしているわけではない。梁は一つ小口にした方が経済合理、構造合理ではないですか。梁を二つ割にして連続して見せることで、すなわち梁を二つ割に=装飾的に見せることで、美しい外観を造っているのだった。すなわち装飾を否定しているはずの近代建築が、装飾的に部材を表現している美なのであった。そう言えば〈機能から様相へ〉という建築家の本があったなー。早く気が付けばよかっただけの話だった。(1987岩波書店)

((全文を当たっておこうと原典を読んでみました。新建築195501に掲載されたもので、以下の言葉から始まり、大変驚きました。
>>機能的なものは美しい、という素朴な、しかも魅惑的なこの言葉ほど、罪ふかいものはない。こ れは多くの気の弱い建築家たちを技術至上主義の狭い道に迷いこませ、彼らが再び希望にみちた建築に帰ってくることを不可能にしてしまうに十分であった。

この言葉は建築機能主義の元祖建築家ルイス・サリヴァンの「形態は機能に従う」を批判し解放しようとしている。ということらしいが、「機能的なもののみ美しい」と唱えた丹下の言葉によって機能至上主義に陥ってしまった自己体験から、そのままお返しすると言うことになっている。そして丹下は美しいピロティの社会的有効性を語り、最後をあの句でこう結んでいる。

>>ある人は、この今の日本で、美は悪であるという。たしかに、そのような面がないとはいいきれないものがあるであろう。しかし、だからといって、生活機能と対応する建築空間が美を実現し、 その秩序を通じてのみ、建築空間は、機能を人間に伝えることができる、ということを否定しうるものではない。このような意味において、「美しきもののみ機能的である」といいうるのである。 丹下健三

生活機能を美によって伝えることまでは良いが、なぜそのことが「美しきもののみ機能的」ということになるのか?この言葉によってもう一度機能美至上主義に陥ってしまって、機能を追求することのみが美に至るのだというドグマになってしまっているということ。それゆえに「美は機能にのみ宿るのではない」と言いうる。 mirutake))

こう言う言葉で建築のデザインができると思い込んでいたんだ。あるいはこう言う言葉からデザインが生み出せるんだと思い込まされていたんだ。
こう言う言葉は時代の建築の勢いを現してしているだけで、あるいは建築家の決意を表しているだけで、内容は盛られていないものなのだった。

((ところで建築は美ではないとか、美だけではないとか言われそうだ。建築が社会性とかいろんな側面があることは言うまでもないことで、それらの多様な側面を乗り越えて、美と言う最上の観点でも評価される建築固有の美。建築の美は様式から色彩から面構成から空間流動と言うところまで突き詰められてきている。))

     生活機能からデザイン 
丹下が生活機能をテーマを掲げていたというのは大変な驚きでした。
そこで思い付いたのですが、一応生活機能からのデザインと言うのを肯定した文を考えて見ました。
浮かんできたのは丹下自邸にしても、2階に生活機能の中心を持ち上げたということ、だからピロティになったのだということ。だから、2階に上げたからこそ、和風の新たな庭との関係(プライバシーの生活)が可能になったのだということ。だからこそ和風の生活様式を近代化したデザイン=ピロテイとすることが目指されたと。(丹下自邸を取り上げた本やHPを見ていますと、ピロティがプライバシーのためなのだという記述が見当たらないのです。それで私はサボワ邸にしても軽井沢の山荘にしても、ピロティの目標はプライバシーなのだと、長年HPで力説してきたのですが、丹下自邸は丹下の元の文章にはあっさりと書かれていたのでした。これに建築界が全く注目していないということなのです。)

     生活機能を人に伝えることが美である。
生活の場に時代の言葉=新しい機能という意味を乗せたデザインをする。
たとえば丹下自邸の畳と同面の卓に注目すると。通常卓は畳の上に400位上にあるものだ。これが畳と同面になることは空間のシンプル性、畳と卓から濡れ縁へと単一面の重なりが加算することになり、和風の庭への重畳の美が高度に成立する。
これで生活できるとする人もいるはずで、勿論ほとんどの人がこんなでは生活できないと思ったことだろう。。建築家として優れた先進を実現したいという意志と、生活という保守性の狭間で提案し続けるのが建築家ということなのだ、と一旦は言ってみる。


     丹下邸のピロティについて
コルビジェの近代建築5原則の中の、ピロティは集合住宅で1階をみんなに開放して通り抜けられるようにすることで、便利に誰でも使ってもらうことだと思う。まさに社会化です。このことから住宅のピロティも同じように解釈するのは間違いでしょう。サボワ邸については前に書きましたが(けんちく探訪33)、都市住居であるアパルトマンの1階は、店舗などで2階以上の住民ではないお店の持ち主がいるわけです。その1階を社会化してみんなが利用できるようにしたのがコルビジェのピロティです。個人住宅では1階も2階も同じ持ち主ですから、1階ピロティを社会化して皆に使ってもらうわけではありません。では何故ピロティにするのか?アパルトマンでの生活者である中産階級のサボワさんには、1階で生活するのはプライバシー意識から無理だったのです。サボワ邸のように広大な敷地があっても、アパルトマン生活をしてきたサボワさんには無理だったのです。
現在都市居住が当たり前の私たちの居住意識でも、同じプライバシー意識があって、1階では通りからの視線がとても気になって、2階以上に住もうとしているはずです。
ですから丹下邸でも同じです。
丹下邸の1階の私性(社会性の反対語)の場に近隣の子供たちが遊びにくるのは、丹下家が近隣の子供達にはオープンに提供したからです。近隣の大人たちにはそうはいかないでしょう。ですからピロティは@集合住宅の社会化したオープンスペースと、A個人住宅の社会化できないオープンスペースとして決定的に意味が違っているのです。けっして個人住宅のピロティが社会化されたと言わないでください。集合住宅のピロテイから始まったピロティの社会性が、そのまま個人住宅に展開しているのではないのです。造形的には同じピロティかもしれませんが、社会機能的には全く違うものです。そう紹介している本があるから書きました。


     ※19

この項が書き終わった頃に、丹下健三展がありまして、それを写真で紹介するHPを見つけました。
「「丹下健三の、国立近現代建築資料館で行われている建築展「戦前からオリンピック・万博まで 1938-1970」をフォトレポート。卒業生設計から代々木競技場までの図面と模型等を紹介する展覧会を100枚以上の写真で紹介 」」とHPで紹介されていた。100枚以上の写真とは凄いHP。

そこで丹下邸の図面=矩計図スケッチも載せていた。そこにはなんと驚くことに 小屋組がキングポストトラスで書かれているではないか!ここから発想していたら何時まで経っても登り梁の実施案には届かない。あの軒先まで伸びた浮き上がる傾斜天井もとてもできない。すなわち本当にレーモンド自邸なしには丹下邸はならなかったと確信した次第です。

                                           2o211o29 mirutake


   参照情報

※1 「吉村順三作品集―1941-1978」 (1979年) 新建築社 (1979/03)
※2 月波楼「中の間」から松琴亭を望む (ウキペイディア 桂離宮から
※3 星のや東京
※4 鎌倉の別邸にしたい!自宅のようにくつろげる新ホテルが誕生
※5 ホテルメトロポリタン鎌倉 202003
※6 鎌倉の別邸にしたい!自宅のようにくつろげる新ホテルが誕生
※7 【鼎談】龍安寺石庭、謎深き15の石
※8 RESERVATION [ホテルメトロポリタン鎌倉]
※9 HOTEL METROPOLITAN KAMAKURA
※10 京都東山計画(山荘 京大和・ハ゜ーク ハイアット 京都) 新建築202001
※11 一度は泊まりたい憧れホテルが京都に。新たな京都滞在が叶う〈パーク ハイアット 京都〉 Hanako
※12 パーク ハイアット 京都 202001
※13 「山荘 京大和」と「パークハイアット京都」 設計担当:白波瀬 智幸 竹中工務店
※14 丹下健三 丹下邸/1953年(現存せず) マガジンハウス
※15 丹下健三 2002 丹下健三 藤森照信著 新建築社
※16 桂離宮 鈴木嘉吉 中村昌生 写真:田畑みなお 小学館 1995
※17 自邸1953by丹下健三 #100x100masterhouses michi
※18 レーモンド邸 断面詳細図(新建築 1962年4月号より)
※19 丹下健三の、国立近現代建築資料館で行われている建築展「戦前からオリンピック・万博まで 1938-1970」をフォトレポート。卒業生設計から代々木競技場までの図面と模型等を紹介する展覧会を100枚以上の写真で紹介 architecturephoto


    「建築の日本展」その4・丹下健三自邸 日日日影新聞 (nichi nichi hikage shinbun)
    「 建築の日本展 」その2 日日日影新聞 (nichi nichi hikage shinbun)
    日本 東京都 1953年 住居 住居施設 TANGE
    KENZO TANGE martes, 7 de enero de 2014
    レーモンド自邸(コピー)を見る 近代建築の楽しみ
    日本の 1950 年代の木造住宅作品における断熱 ソフトテックス
    「復刻版 人間と建築」2011(1970)丹下健三著 彰国社
    「復刻版 これからの住まい」2011(1947)西山夘三


    その他の写真はけんちく激写資料室 より