現在東陽町竹中工務店ギャラリーエークワッド(A4)で
「アイノとアルヴァ 二人のアアルト 建築・デザイン・生活革命」展が開催されています。
まだ全体の20%程度の内容だとのこと、それもあってかまとまったものにはなってない感じがします。来年1月に100%になって世田谷美術館に戻ってくるとのことです。
(会場一番奥の展示風景、アアルト邸のキッチン部分。左に外観2枚の写真が展示されている。)
会場にはアイノやアルヴァの写真がランダムに飾られています。私たちがよく知っている正面玄関の写真もあります。2階左上外壁が焦げ茶色の写真です。ところが見つけたのですが、2階左上外壁が白い写真があったのです。これはどうして白いのでしょうか?
これは明らかに外壁が白木塗装の時期があったことを示しています。
パンフをよく見ると1937年撮影とありました。
アアルト自邸は竣工が1936年ですから1年くらいの期間は白木塗装の外壁の時期があったということになります。
(左の写真が白木の時期で1937、右の写真が2013)
(左の写真が白木の時期で1937、右の写真は2017)
次にアイノ&アルヴァが建てる住宅はマイレア邸(1938)です。そこにも焦げ茶色の2階外壁部分があります。どうも私の憶測ではアアルト自邸では最初は白木としてデザインしたが、マイレア邸の時期には焦げ茶色はどうか?と言う思考があって、試しに自邸でまず焦げ茶色の外壁に試した、ということのような気がするのです。
よく見てみると二つはデザインも外壁の調子も似ていることが解ってきます。アールトの建築はその都度違うデザインをやっていて解りずらいなーと思っていましたが、ここ二つの住宅には共通性があると理解できてたのです。
それは白木の状態より焦げ茶色にすることに意味があった、または焦げ茶色の面と木色の面と白色レンガの面があることの方が設計の意図が明確になる等の選択があったと予想されます。
(アアルト自邸1936、マイレア邸1938 焦げ茶を減らし木部色面を拡大している。)
この白木に着色するというので、すぐ思い出すのがリートフェルトのレッド&ブルーチェアー(1923)ですね。あれも当初は白木(1918)で作ってあったものを、デ・スティルの思想を通過することで、世界を作る3原色レッド ブルー イエローと黒で着色したのでした。この着色は椅子の座がブルー、背もたれが赤、手摺り他角材が黒、その小口がイエローとして、用途ごとの色分けとなっており、色分けの理由が解りやすいものとなっています。
(リートフェルトのレッド&ブルーチェアーと白木の初期モデル)
方やリートフェルトの名作シュレーダー邸(1924)は外観は全体を白とグレーの壁面構成として、細い部材には原色を使っており、これも抑制が効いてわかりやすい色彩構成となっています。
(シュレーダー邸、南西面スタジオ入り口・南西と南東面・南東面 住宅入口、外観は板の組み合わせ構成がよく分かる(ちなみにレンガ造で床や根は木造、バルコニーだけRC))
ところが内部は違っています。間取りによる色分けでもないし、その論理はわからないのです。外観はわかりやすく面構成と線部材とということでもあり論理が明解です。ですから余計内部がどのような理屈で色分けとなっているのかわからないのです。
(シュレーダー邸内部写真※1、右図:2階平面図の床塗装図、ワンルームを間仕切り建具で個室に仕切るが色分けが間取りとは関係ない。※0)
わざと解らないような色分けとしたのでしょうか?と思いたい今日この頃です。と言いますのは大元のデ・ステイルのドースブルフの色彩計画では外観面にも色を塗っており、その塗分け論理はよく解らないものです。ですからここでも思いつくのは色彩を着けるのは形態の統一性を崩すためなのではないか?と思い至るのでした。これは現代のデザイン状況では結構当たり前に全体を統一しないように、威圧しないように、分節したり、親しみやすいように色彩を使ったりと、非統一を目指す主張が明確にあるの思い付きやすいです。
アールト自邸(1935−1936)もマイレア邸(1937−1938)も、キュービックを崩しており、統一感が感じられないデザインをやっている。そこでアールト自邸の白木仕様を見てみますと、見慣れた焦げ茶色仕様より、白木の時期の方が統一感があり、全体にソフトな感じではあります。そうです、焦げ茶色に塗ったのは統一感をより崩すためにほかなりません。ここに思考の変遷を見ることができると思います。では何故焦げ茶色なのか?3原色は避けたというところまでははっきりしており、思想的にどうあったのかという理由はわかりません。焦げ茶色で着色したこと=薄められたデ・スチールがここに生き残っている感じがします。デ・スティル自体はドースブルフの死(1931)まで続いたとなっていますが。
(今回ドースブルフの外観立体色彩計画模型※2 を見直してみると、焦げ茶色があることを確認しました。いや赤だけど陰になってこげ茶に見えているだけかもしれません。)
いやここはグロピウスやコルビュジェの白い箱=インターナショナルスタイルを出してくるべきなのでしょう。白い箱が権威であった時代、一部を焦げ茶に塗ることで白い箱の否定であり外観の文節化を進めた明快なデザインの出発だった、といえると思います。
(マイスターハウス1926 グロピウス、グロピウス邸1938※4)
(ラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸1925 コルビュジェ、サヴォワ邸1931 当時白い箱は世界を席巻していた、)
そうここまで来ると白木の状態も白い箱の否定初期であることが見えてくると思います。インターナショナルスタイルの白い箱形の否定として、アアルトの住宅建築はレンガに白ペンキを塗ったものと、白木で材質感を変えることで=文節化外壁を組み合わせたデザインとして始まったのだと言うことができるのではないでしょうか。
アイノの死後のアアルトの設計になる住宅はルイカレ邸(1956-58)です。これをを見てみますと、その片流れの屋根勾配で全体を秩序立て、統一的に白塗りした外壁、内部の天井の特異な大アールの作り方といい、複雑に分節させてはいますが統一意思を明確に出すデザインに変わっていると思います。
(ルイカレ邸(1956-58)外壁面はほとんどがレンガに白色塗装面となる。)※3
デザインの過程が少しでも分かると、そこに決定のプロセス物語がデザイン史の中に見えてくる。
2o2oo127 mirutake
追伸
アアルト邸を改めて見つめてみるとレンガ壁に白ペンキとか、白木塗装仕上げとか、もみの木焦げ茶色仕上げとか素材感を消すでもなく出すでもなく、この中途半端さは白でもなく原色でもなくという反インターナショナル、反デ・ステイルの選択だからだったと思える。
そもそもここでなぜアアルトの対抗馬にシュレーダー邸なのか。それはそもそもアアルト邸までの時代にバウハウスあるいはコルビジェの白い箱に対抗するデザインはないからなのだった。デステイルのリートフェルトにしてもシュレーダー邸以降にはバウハウススタイルに流れて行ってしまったからだ。
アアルト邸はシュレーダー邸から13年 バイミオのサナトリウムからは9年、同時期にCIAMの会員になっている。にも関わらずアアルト邸では反CIAMスタイルを取ろうとしているのだった。
アールトは1928年のバイミオのサナトリウムで北欧モダニズムを出発させ、同時期にCIAMの終身会員に選ばれグロピウス、コルヴィジェらと知己になり(ウィキペディア)、とある。
今まで多くの方にDATAを提供してもらって編集してきましたが、アールト建築は複雑で何を頼りに見てゆけばいいのか皆目見つけられなかった。今回A4(エークワッド)のおかげで切っ掛けがつかめた。これでやっとアアルト自邸のプランも眺められるようになった。そこで気が付いたことは1階と2階にリビングがあること。これは1階の方が大きくとってあって、きっとお客とともに食事し過ごす計画となっているように思える。1階のリビングからは庭への連続性はない(腰窓のため視覚のみ)。(庭にある小さな池のようなものは今回A4でアイノが鶴らしき鳥と映っている写真から水飲み場と思った。いろんな動物が訪れるように備えてあるのだと思えた。)
2階居間ではお客があるときも子供たちと共に過ごせるようになっていると思える。(A4のビデオでアルヴァがアイノに客のためにピアノを弾いてくれと頼むくだりがあって、2階居間にいたアイノと子供たちがいたと想像させた。またアイノが弾くピアノはとても情熱的で力が入っていたという下りがあった。)この2階居間から掃出し開口から直にテラスに出られる設計にはなっていないが、アイノが長椅子に寛いだ写真もあって、私的に外を堪能する場と計画されている。コルヴィジェのサヴォワ邸の2階中庭を思い出すのだが、あちらはお客を呼んでの外部空間という意味が強いと感じさせ、こちらは私的な外部空間としての次元をはっきりさせている。2階に持ってきて守られた外部というところでは同じ計画だが。
アアルト邸とアトリエ 写真 宮本和義 解説 齋藤哲也 バナナブックス 1700円より
会場でのビデオではアルヴァは外交的で接客に優れ、こなしていたとあった。
アアルトの外観デザイン方法が文節と言ってきたが、シュレーダー邸と並べて眺めていると、面構成に近い作り方になっていることも気付いてきた。世界を白い箱が席巻している中で、抽象形態ではない、地域性を持った独自の形式を生み出そうと発想していった。それが今回気が付いた板張りであり、それの焦げ茶色であり、板色でありと分節化を多面的に進めることだった。ベースのレンガ造も近代を意味させる白色ペイント塗にすることにより、世界性と地域性の多義的な意味を担わせる為だと思える。
それがセイナッツァロの村役場 1953 ではレンガそのままで全体をやってしまうほど地域意識を強く打ち出すことになった、などど想像して楽しんでいるのでした。
2o2oo2o1 mirutake
そもそものシュレーダー邸の色彩の意味は、白色も色彩も素材感を消した抽象形態を意味しているということだと思います。レッド&ブルーチェアーも、白木状態は木材の材質感が現実存在として存在感を発散しています。それに対して不透明の着色は物の材質感を失って=現実感を失って抽象感を発散することになり、現実から離れた感じや未来感のようなものを抱かせるものです。シュレーダー邸は一切の現実感を失って不透明色彩と板構成の抽象感を徹底的に実現したということです。
アアルトのバイミオのサナトリウム(1933)とか、ヴィープリの図書館(1935)とかは色彩を使った抽象感を発散しています。でもここに有名な波打つかのような木製の天井が出現しています。ここに続くアアルト自邸(1936)も抽象主義、インターナショナルスタイルからの脱出する方法を目指していたのがわかります。
(庭側外観写真)
ここにきて思い付いて庭側外観写真を点検してみました。
するとスチール丸パイプ柱がこの写真で見える範囲で3本がブルーであることがわかります。デ・ステイルの3原色はイエロー・ブルー・レッドです。アアルト邸に使われている色彩は木部のイエロー・丸パイプがブルー・着色木部が焦げ茶色(黒に見えてますが)と言うことになり、薄められたデ・ステイルとなっていました。もうお解りかと思いますが、薄められたとは不透明色彩を使うことで現実感を消し、抽象度を最高に高めた色彩の世界に向かうのではなく、素材感を残した透明色彩を使ったということですね。これがインターナショナルな世界観ではなく、地方性を表現する方向をそこに見つけたと言うことでした。