和風の「室内から庭を見る」在り方は
  高層住宅のバルコニーから都市の自然へ

                 photo by mirutake net google

これまで軽井沢の山荘(吉村順三)で、居間内部から外部へと視線を誘導するバルコニー=そこに立たないバルコニーの新たなイメージを提出してきました。
そしてバルコニーの前身=縁側は単に内外境界領域の近隣コミュニテイの場としてあっただけではなく、もっと多様で深い建築的な意味を担っていました。その新たな一端を捕まえたいと、和風の「室内から庭を見る」と言い換え、縁側は外部(自然)へと視線を導く装置であり、内部床面を外部へと拡張してゆく装置なのでした。椅子座で庭を眺めるのではなく、床に座ってどっしりと身体を保って眺めることで、自己が床の広がりとともにあることを体験するはずです。そして視線が床とともに浮遊してゆくことを体感するするところまで想像できてきました。

今回は今まで提出してきました作品解釈をたどりながら、新たな作品解釈を加えることで、「和風の室内から庭を見る」ことの意味を深めることをこころみました。またこの和風の「浮遊する視線」が、現在にどこまで(高層住宅、高層ホテル)接続できるかも試みてみました。ネットで話題の画像なども解釈をしてみましたが、解りやすくなったでしょうか。

*1 けんちく探訪
 軽井沢の山荘(吉村順三)のバルコニーが、そこに立つためではなく、視線や意識を居間の床面から外に誘導するものとして作用していると発見する。その奥行きの狭さ、手すりが単純で視線がするっと空中に滑ってゆくかのように造られていた。

*2 けんちく探訪
 桂離宮 月波楼の「月見縁」に軽井沢の山荘との類似性を見つける。
その奥行き、手すりの形状、床からするっと視線が浮遊してゆく。開口がL字型となっているのも同じだ。ここでも実は内部床と池面との関係は2500近い高さがあった。そしてこの時、軽井沢の山荘は和風の庭を見る作法からきているのではないか?こう感じてきたのでした。軽井沢の山荘の居間は2階ですが、和風の縁側(1階)の庭との関係を再現していると思われたのでした。

 デ・ヤング美術館 けんちく激写資料室
 軽井沢の山荘の発展形としてデ・ヤング美術館(ヘルツオーク&ド・ムーロン)が視線の水平方向への誘導を考えて、濡れ縁ならぬ鉄板キャットウォークを着けているのを発見したのでした。このキャットウォークの有り無しで水平方向への視線の誘導感がずいぶん違う。また上部には格子ルーバーを付けて天空の眩しさをカットして安定した視界を作っています。和風の軒天井の作用と一緒ですね。

*3 けんちく探訪
また星のや東京(東理恵)に床までのガラス開口、その間に狭いが縁側状のものをいれてから障子を入れた。それから外部キャットウォークがあったりと、外部への視線の誘導感覚を作っている。、また家具配置が床座になったことで、床面と身体が一体となり、外へと意識が誘導される感覚が強くなった。これは視線を室内から誘導する畳>縁側>濡れ縁(キャットウォーク)と続く和風の床面の展開を見ることができました。

井上房一郎邸 けんちく探訪
レーモンド自邸の写しである井上房一郎邸にみる、内部床から外部ペイブの高さが低い。
これで近代住宅の庭との関係は完成形だと思っていたのですが、ここには洋風仕様の匂いを嗅ぎつけていました。井上房一郎は裸足で内部を使ったことでしょうが、レーモンドは土足で使っていました。その内外の段差意識は西洋住宅のものです。パーゴラでの食事と言い、内外の段差は無いに等しく、「大地」と一体の内部床という意識ではないか!と気づくのでした。
これに対して和風とは床が大地から500ほど上がっているものなのでした。この床の高さの差に=この床座と椅子座の生活様式の差に、庭との関係の和風と洋風の違いがあるのでした。和風は床に座ってしっかりと身体を支えて庭へと視線を浮遊させる。それに対して椅子座ではすぐ立ち上がって庭に出て楽しむ在り方なのでした。
(フランク・ロイド・ライトの落水荘の暖炉付近の岩は外部に露出していたものですから、大地の床としての居間ですね。)

*4 円通寺 (京都市)
私たちの和風体験からいうと、まず室内から庭に出るには結構な段差(500程度)があることを知っています。
私たちの身体はこの大地から浮いた床に乗っていますが、それに座っているのでどっかと安定している身体感覚です。床座というのはこの大地から浮いているのですが、床とは一体の身体を感じているのです。そうでありながら畳なり、縁側なりの床の広がりが、大地から床ごと浮いた感覚を体感させるということでしょうか。

   洋風と和風の身体感覚の違い
洋風とは椅子座のことで、いつでも飛び出せるフットワークの身体ですから、身体が床から浮いているのです。当たり前ですが。
私たちの床座の身体は床に座っているゆえに、床と一体=床にどっかと安定して一体となって座っているということでした。この生活習慣の違いは決定的です。このことが大地と一体の内部床と言う洋風の仕様と、大地から浮き上がった床と一体の身体という、和風の身体感覚との違いを作っています。この違いに洋風と和風の、土足と素足の、椅子座と床座の決定的な身体感覚の違い、生活スタイルの違いとしてあります。

   和風の室内からの庭体験
このことをもう一度和風スタイルに返してゆくと、大地と床との高さに意味があることがわかります。すなわち軽井沢の山荘で浮遊する視線という言葉を使ったように、自然の中にさまよってゆく視線は、床と一体となっている身体性ゆえでないでしょうか。床座こそが安定した身体感覚を保証します。そして視線と一体になって床の外部へ向かった広がりが浮遊する感覚を作ると思うのです。それは空飛ぶ絨毯というのは大袈裟ですが、浮遊する意識と一体の床も浮いている、という意識の状態はあるのではないでしょうか。私には2階の軽井沢の山荘の居間ゆえに見つけられた感覚だったのです。でも、1階の床であっても洋風のように大地と一体の床ではなかったのです。元々一階で大地から浮かせた床を作って空飛ぶ絨毯であるかのように、自然を浮遊する意識とともに在る床なのです。そう1階であっても自然に向かって浮遊する意識は、「畳面から濡れ縁へから庭へと」浮遊してゆく床面だったのでした。

*5 京都旅行.6 竜安寺は早朝に行くと世界遺産の枯山水の石庭を貸し切りできるのでのおすすめ
*5a 【鼎談】龍安寺石庭、謎深き15の石
床の重畳が庭へと意識が広がって行く感覚がある。

   洋風の庭への意識
洋風の室内と庭との関係は、近代以前では出入口のみでした。窓はポツ窓で庭との境界として壁で覆われていることが重視されていたのですから。それが近代になって、ということは日本の内外の開放性を知って、西洋の生活意識からすぐにはできませんでしたが、壁を完全に取り払って大ガラス開口ができるようになりました。洋風では必然として床の高さは庭の高さと同じにしてゆくことになります。それは生活習慣として、内部でも靴を履いているのですから当然でした。ここには洋風の庭は外に出て楽しむものという意識に素直に従い、大開口としえたのでした。レーモンドの自邸 パーゴラでの食事にこの典型を見ることができます。現代の建築家のやっている住宅と庭との関係は、この意味で洋風の庭との関係ということになります。

   外での庭体験・内部からの庭体験
ところで和風のということは、庭に出るには履物を履くという行為が生活習慣としてあるのですが。ここでは単なる生活習慣ではなく、一つ違った意識の次元に入るということを意味しています。空中は内外一体なのに、外に身体を出すこととは別次元のことになる。それは庭との関係仕方が外へ出ると、西洋と同じに楽しむこと=行為空間となりますからです。室内にとどまっての庭体験とは、室内から庭を眺め続ける、ということに決定的な意味を見出しているのでした。それは身体は室内という安全・安心な場所から庭という外界を眺めるということです。ここに庭を眺めるということの重要な観点が浮かび上がってきます。

   自己意識へ
それは庭を見る意識が安全な自己身体を確保してから見つめているということです。土足でない素足のきれいな床というのは、この安全・安定な自己身体を確保したうえでのことを意味しています。見ることに集中できる意識の状態を作っているということです。床座であることがこの身体の安定を確保するがゆえに、自由に意識浮遊するために決定的なものといえます。外部で立って陽光や風に耐えながら身体を支えているのと、内部に座って身体を安定させているのと、身体の無意識の働きがかなり楽になっているはずです。だから庭への意識の集中できる度合いが違ってくるのです。
この和風の自由な意識が庭へと浮遊してゆくと、身体と一体となった床面の無意識も意識とともに浮遊し始める。これが和風という生活スタイルに込められた、身体と床と庭と、そして自己意識の浮遊する深い関係のことなのでした。

このコンセプトをしっかり持つことで、しっかりと形が切れる。

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*6
この和風の庭への視線と言うイメージをここまで作ってくるとき、歴史家 鈴木博之の「庭師 小川治兵衛とその時代」にであった。
そこには近代化に対応した
P172 二階建てに対応した庭 
絵画と比べながら見る庭 
床柱に寄りかかりながら見る庭 等が描写されている。
P251 小川治兵衛の庭園は、実際の地形、植栽、石をそのまま構成するものであり、象徴主義的含意を持つものではなく、自然主義庭園である。
狷介で孤独な権力者が、唯一心を許した趣味が庭園であり、庭園を前にして自己に沈潜することができた。
P252 孤独な権力者が自己に向き合わざる負えなくなる時、庭の佇まいは、己を支えてくれる小宇宙であった。

この観点は思索的だ。ここには庭を眺める主体の、世界を対象化する自己意識を見ることができます。和風の庭はこういう在り方を目指してきたと言っているように思います。

そして自己に向き合う在り方は、庭を失った私たち一般人にも青空があり、しとしと降る雨があり、風雨にうごめく街路樹があり、台風の時があり、雪の窓がある。そして深夜ひとり床に座り間戸の前に天空を見る。これらの都市に残された自然に向き合う自己意識とは、私たち自身でしょう。マンションのバルコニーでも和風の視線は生きている。

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これまでの話の床座や、床までの開口、濡れ縁の展開を、現在の一般的な住空間をHPに見つけてみました。

*7 YouTube
賃貸住宅ですから建築的には何も新しいことはありません、ごく普通の在り方です。けれどタレントが板簀の子のバルコニーに座っています。通常バルコニーでは立っているばかりで、座っている姿は私たちの生活でもなかなか無いと思います。なのに室内と同じように外部であるバルコニーに親しく座っている。ちょっとびっくり。このCMの目指しているものは何んでしょうか。こんなバルコニーいいなーという思いがわく映像造りという事でしょうか。これはもう和風の縁側仕様ですね。

  *8素敵なウッドデッキ生活を実現した施工例

   奥行き2mバルコニー ガラス手すり 浮き床
バルコニーがガラス手すりになって、床からの広がりがそのまま空に抜けるようになっていたら、こんな感じでしょう。この作り方には私が和風の庭を見る縁側の仕様があると思います。ここまでは作れるし、今も和風の「室内から庭を見る」視線があることが確認できるでしょう。
また内部床とバルコニー床とがゾロで作られていること、床材が内外同じである仕様になっていると、視線が浮遊する意識の効果は大きくなるはずです。そしてバルコニーの手すりの形状が簡潔であることも開放感効果は大きいでしょう。特にバルコニー床終端がその床材のままにスパッと切られた形が最も良い。物が転がると落ちますが。
その全く反対が壁手すりで、視線は全く遮られて洋風の内部に囲まれた感覚を作ることでしょう。軽井沢の山荘では床終端が単純に切られ、その床面に見切り部材などは存在せず、手摺り縦子は少なく、水平手すりは太いですが一本きりとしました。これが絶妙に生きていますね。現在では危なと言われてしまい無理でしょうか。また現在ならガラス手すりがこれを可能とするでしょうが、納まりはなかなか大変です。皆さんこれに挑戦しているのでしょうか。*9

ではここから何を眺めるのか、星のや東京のようにビルばかりだったら格子をつけることになるのでしょうか。曇りガラスの手すりとなるのでしょうか?室内のカーテンがレースになっていれば手すりガラスは透明で行けるのでしょうか。
ここから眺めるのはビル群だけではありません。それは日々の天候の確認であり、何よりも台風やの時に荒れ狂う風雨を見て、人間の弱さを感じるためではないでしょうか。

*9 UR+MUJI
既存賃貸高層マンションの改修です。
なかなかのものだと思いました。壁を真っ白にして、木部の柱も枠も白塗りです。おまけに畳のフチ無しかと思いきや、麻の畳表を開発したとのことです。これなら絨毯のように均質な面に覆われた感じで、絨毯のような洋風の感じになります。しかもしかもですよ、ベットは床置きの仕様です。ソファーもMUJIのビーズソファーです。もう少しシッカリした物にしたい気もしますが、くつろぎの関係ならこれがよいかもしれません。
ところでこれらの家具の仕様は床座ということです。星のや東京と一緒ではないですか。ついに床座の居間が実現されてゆくのでしょうか。

 旧岩崎邸 けんちく激写資料室
かつて明治の時代、天皇を始め洋化政策を推進したわけで、超上流階級(例えば旧岩崎邸)では、お客さんを迎えるのは洋館で靴を履いてもてなし、普段は和館で畳上で素足で生活したといいます。床座の生活からは離れられなかった始まりがあり、現在でも私たちの身体に普遍的に残っているのではないでしょうか。
明治政府以来、洋風の生活様式導入に走ってきました。それでもなかなか定着しない大衆の椅子座の生活を推進するために、戦後住宅公団が2DKの定着にダイニングテーブルセットを付けて売り出したのが大衆化の始まりでした。
現在ダイニングテーブルセットやソファーセットは定着したようです。でもソファー前の床に腰を下ろして、背もたれとしてソファーを使っていませんか。お客さんがきた時だけ、ちゃんと座れば良いのですが、何かしっくり身についていないものを感じます。一部の若者はソファーセットは場所をとるばかりなので止めているといいます。ということは最も簡易に座卓と座布団に近い仕様でしょうか。 これは床座の居間が成立するための条件を表していると思いました。どちらも実は床座の訳で、自分の体の自然に委ねるて良いのではないでしょうか。でもやっぱり床座がかっこいいというファッションまで行かないと普及は無理なんでしょうね。建築家に期待できないでしょうか。

かつて70年代に私が建築を始めた頃、建築家黒沢隆は居間のソファーセットが定型になってきたが、なにか私たちの生活からはしっくりこないものを残している。きっと床座の居間でのデザインが開発されないと、このことは解消されないのではないか、と言っていたことを思い出すのでした。あれから35年が過ぎて、もしかしたら始まったのかもしれないですね。

                        2o17o9o1 mirutake


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    追記

*10日曜美術館「小さな家たちの冒険」ブルーボックスハウス・宮脇檀
また宮脇檀のブルーボックスの写真を見ると、居間に椅子座のソファーとともに、床を丸く下げて床座の居間を作っていました。建築家に共有の問題意識と捕らえられますね。


    平屋の床>縁側>庭 バリエーション

A 内部床が低く外部床と同じ高さのもの。実は洋風の在り方、よって椅子座の人型を入れた。
B 大地と段差500くらいつくのが和風ということ。絶壁型。通常は踏み石段が付く。
C 外部側に濡れ縁が付く。このスタイルが内部床が外部に延長してゆく感覚を作る。同時に視線も水平方向に誘導される。この床の段差と延長感が浮遊感を作る。和風の神髄。
D この濡れ縁に庇を支える柱が付いたのが伝統的な母屋と下屋ということで、古民家の構造定番でもある。これが武家の儀式生活様式としての定番になった。
 この縁の先端に雨戸が入ったり、ガラス戸が入ったり、内部延長感は減るが、開け放ってあれば有効だ。
 この縁の前に濡れ縁が付いたりする。


   2階建て以上の床>キャットウォーク>空 バリエーション 

A 一般的な事務所ビルを想定している。(床までガラスはいまだ一般的でないかもしれないが。)ガラス窓からいきなり直下が見えるので、絶壁と言っている。高所感があり怖い。
B 窓庇がついている例。
C キャットウォークが付いている例。窓ふきなどに使う。これが濡れ縁のように内部床にぴったりつくと、外に内部床が延長した感じで、視線が自然に水平に伸びる。和風の神髄が事務所ビルでもありうる。直下が見えないので怖さがない。デ・ヤング美術館。
 バルコニーがガラス手すりで居間から床がフローリングで空に向かってゆくなら、和風の神髄が集合住宅でもできる。
D 庇状のもの。これがキャットウォークに見えたら人が落下するので、すごく怖く見える。


清家清 斎藤助教授の家 1952 再現1971

「日本の家展」行ってきました。
清家清の「斎藤助教授の家」が実大再現で作られていました。妻と畳の床に座り、やっぱり浮遊感あるよねと言っていました。それはこの畳から広縁の広がりゆえでしょうか。天井が真っ白で天井鴨居も天井面と段差なしに、水平面がそのまま軒天井になって伸びてゆきます。開放感が凄い。内法高が低いからか天井が高く感じます。この軒までの水平天井はバルセロナパビリオンからきているのか。
和風の広縁を使った設計で、広縁にスペースをタップリ取って、伸びやかで豊かな広がりを感じることができました。若いときには狭い面積なのにスペース配分に納得がゆきませんでした。現在なら、この和風の庭への浮遊感という美を大切にし、面積に余裕がなくっても、良質な空間を作ることを優先していたのだと納得できます。
室内会場での再現ゆえに敷地の段差は再現されませんでした。広縁の先にテラスがあり、その先にかなりの段差があること。また西側の和室などがキャンテリバーによって持ち出しになり、大地から浮いていることなどは再現されていません。当時の写真で確認しましょう。それがあったらもっとすごい浮遊感だっただろうと思います。帰宅してから、展の資料にこの住宅が浮遊感があると解説されており驚きでした。日本建築の浮遊感に着目している人がここにもいました。

 清家清 私の家 1953
 私は清家清の自邸「私の家」が好きですが、戦後直ぐの、夫婦二人のための住宅で、扉が一切ありません。そのHなワンルーム空間に感動していました。ところが、これは土足仕様が原設計です。欧米の土足生活に新しさを感じていたのでしょうが、結局は素足で使うことになりました。清家清は同じ時期に土足仕様椅子座と、和風の素足仕様床座の設計をしていたのです。
ところで清家清自身この時期での幾つかのこの和風床から庭への浮遊感=美意識は続きませんでした。次々新たな価値観に答えて行ったからでしょう。建築家はみんな移ろっていってしまう。傑作はいつでも時代条件とアイデアの一度限りの絶妙なバランスで成り立つときがあるのだと。

 和風断面図と斎藤助教授の家 略断面図
軒の下がった通常の和風と、清家清の水平の軒を比べてみると、天井高さは同じなのに解放感は半端ないですね。これが水平天井2365は低い数値ですが、高く見える理由かもしれません。

*1
 「けんちく探訪」 12/07/01 58a.吉村順三「軽井沢の山荘」1962 より
和風の床の重畳が庭への視線の浮遊感を生むといってきました。
軽井沢の山荘は椅子座ですが、私の願望は床座で樹林を眺めたら浮遊感マックスだなーと思っていたのが、この断面図に床に座る親子を入れていました。開口の額縁効果で景色が浮き上がって見えてくる。腰壁付きの額縁ですと樹木は張り付けた絵のようですが、掃き出し窓は外への視線誘導が起こって、樹間を浮遊することになります。これは和風設定の重要な要素の一つです。
また庭への注視を成り立たせる役割として、深い軒が天空の眩しさを遮って安定した視界を作っているのが、和風ということですね。また室内から見るということは、開口部の矩形が、和風では柱や内法材がが額縁効果を作っています。特に近代建築では欄間が無くなったのでシンプルに額縁効果を発揮することになります。軽井沢の山荘では、特に正面写真では窓外の樹木を効果的に切り取って説得してきます。
しかし実際の開口はL字型ですので、写真の切り取りで額縁効果をうまく見せていることになります。きっと実物はL字型だから一枚開口よりも外部が浸透してくる感じが強いのだと思います。3階から撮った写真がL字開口と床の広がりとの一体感をよく示しています。*10
ただ家具が窓開口視界を遮ってしまったり、床広がりを遮ってしまうのでした。それは床座ならではの家具無し空間の浮遊する床感覚という事になっているはずです。そうです、当然ですが浮遊する庭への視線は、日本の床座の生活習慣から作られてきた作法です。ですから床に座って見ないと最高の浮遊感は得られないのでした。軽井沢の山荘も床に座って外を眺めると、その浮遊感は倍増されるのではないかと思っています。床座ならではの空飛ぶ絨毯に乗った感じが味わえるのではないでしょうか。

私は深夜自宅マンションのバルコニーを前に床に座って見る。そのどっしりとした床からの受け止めを身体が感じる。目の前に広がる深夜の植木鉢や、暗い空。次に椅子に座って見る。都心なので空が見えなくなる。植木を見つめる感じが無くなる。漠然とした外への視線と、内部への意識を感じる。確かに違うのだが、どう言葉にしたらいいのか、言葉が見つからない。

私たちは家屋敷や庭園は公共にしかないくなったが、防風雨の自然を見る自己意識は失なってはいない。


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イバンカ・トランプ氏が星のや東京でフランス料理の接待を受けるというのは聞いて驚いていたが、そのニュース映像を見てもっとびっくりした。
映像は動画のものなので不鮮明ではあるが、冒頭部分で、雅楽の演奏を楽しんだというもの。その演奏者の舞台が、畳の小口側にLEDらしきものを仕込んで床が浮いているように見せていたこと。おまけにこの床LEDは2段になっていて、その上段に演奏者が座っている。LEDの演出は過剰を感じるものだが、これって和風の床が浮き上がるというのが、私たち日本人には無意識に得心されているものと思われた。

                                        2o1711o4


   関連 hp 出典
*1 「吉村順三作品集―1941-1978」 (1979年) 新建築社 (1979/03)
*2 月波楼の掃き出しと濡れ縁((ウィキペディァ)
*3 星のや東京のHPから
*4 円通寺 (京都市) (ウィキペディァ)
*5 京都旅行.6 竜安寺は早朝に行くと世界遺産の枯山水の石庭を貸し切りできるのでのおすすめ
*5a 【鼎談】龍安寺石庭、謎深き15の石
*6 「庭師 小川治兵衛とその時代」鈴木 博之 東京大学出版会 (2013/5/29)
*7  YouTube 山本美月 積水ハウス 賃貸住宅 CM
*8 素敵なウッドデッキ生活を実現した施工例
*9 UR+MUJI
*10 日曜美術館「小さな家たちの冒険」ブルーボックスハウス・宮脇檀