〒143-0025 東京都大田区南馬込4丁目5-5-15
南馬込 大田区立熊谷恒子記念館
ota-bunka.or.jp
1936年竣工 女流かな書道家の住宅
photo by mirutake 2016.04
敷地は大田区は南馬込の桜並木から、登ってゆく坂の途中になります。
海からの最初の土手状に高くなっているところです。敷地内の16+8段の高さの大谷石の階段を上ります。
居間に当たる室(展示室1・2)の欄間無しの中桟無し引き違いアルミサッシ割がきれい。
910+1485+1485+1810;1810と柱間を変化させている。軒樋を銅板できれいに作っている。
左から旧書斎(和室) 展示室1・2(洋間居間) 談話室(洋間応接室)
旧書斎と書かれている部屋が和室外観 出窓下は換気口になっている。
旧書斎腰壁付きの窓の和室 ここから眺める庭が造られており、石碑が見える。*大田区立熊谷恒子記念館冊子より
庭側の天井が茶室のように小壁付き竹材仕切りで斜め網代貼りになっている。8畳間では異例。
展示室1・2 *大田区立熊谷恒子記念館冊子よりより
ここでも天井が小壁仕切りで垂木を見せて斜め天井になっている。和風の仕様だ。
低い方が2030 高い方が2400 大壁の続き間ということか。
左の壁には無双風の縦長連続窓があり、こちら側が外部のような扱いとなっている。中央に丸形照明も外部用または廊下用デザイン。
*平面図は熊谷恒子記念館パンフレットを、解る限りですが修正しています。
現在旧書斎と書かれている部屋が和室で、これ以外は洋室となっている。
談話室が応接室で、展示室1・2が二間続きの洋室で、そこに広縁が付く、
プランを見てください。一見するとこのプランは現在に近い時代、洋間の居間と予備室の和室という風に見えますが、時は1936年竣工なのです。
住宅は明治時代から始まった和館+洋館の並列というブルジョワの時代から、
なんとか和式と洋式を融合したい、あるいは洋式に統一としたいと言う国家からの要請や、一部でも洋風を取り入れたいと言う欲望やと展開していたのです。
戦前である1930年代は、大衆の洋風化へと向かって応接間(書斎)などの一部屋を洋風とし、生活は着物を着た和式というものだった。そしてここでの和式とは,和室の続き間と南側全面の縁側というスタイルをまだまだ抜け出してはいなかった。
熊谷邸はこの時期に位置しているにもかかわらず、旧書斎と書かれた和室が南側の縁側なしに腰壁付きの窓で個室化しており、住まい手の書道家として個室化した和室が必要だったとことを思わせる。これに答える和風の形式が一室内で完結する空間を造っている=茶室の形式にのっとってデザインすることにしたのだろう。一部傾斜天井としたり、その下がり壁を竹の部材を使って軽やかに造型している。(写真では良く見えないが。)
またその他の生活の室が全て洋室化しているのが、文化人としての住まい手の洋風化住宅の先取り意識と考えられる。(このころの建築家の住宅では、1935土浦亀城自邸、少し下って1941前川圀男自邸などが和室無しの洋式生活となっている。後掲)
このころの一般的な人々の生活が和式であったのに、熊谷邸では書道家として必要な和室以外は洋風化してしまっていると言うこと。
それができてしまったとき、洋間が和風のデザインになっているところも面白いのでした。
居間(展示室)の天井が低い、広縁天井が垂木をきれいに見せる物になってもっと低い限界天井になっている。記念館とするときにこの洋間のデザインに統一された可能性もあるが。
近年は低い天井は流行りませんが、1970年代までは建築家たちは低い天井を目指していました。それは和風のテイストを生かせる最後の試みでもあったと思う。室の空間意識が天井の低さによって重心が低く、落ち着いた感覚を抱かせる。それは物である天井が身体に寄せてくるとき、しっとりとした感覚を抱かせるのだ。そんな感覚を喚起させる熊谷邸の居間=予備室1・2前に付属するの天井の低さであった。今では建築家たちも出来ない低い天井なのでした。
またテラスは体験しなければ気付けなかった和風の佇まいがあるのでした。
洋風である鉄平石貼りのテラスは、濡れ縁のように居間にしっくりと付属した感覚に、腰掛けても自然な肌ざわりを抱かせてくれた。それは綺麗に洗われたしっとりとした奇麗さだ。その平面プロポーションからも、その先端の板を思わせる石の扱いも、和風の濡れ縁をイメージしてつくられたものとおもえます。先端に低い階段を2段設え和風の床高(500くらい)を飲み込んでいます。
広縁とテラスがとても低いのは近代を迎えた洋風の作りですが、こんな早い時期に実現しているのも特質ものでした。
こう言う洋風部品なのにも関わらず、和風のテイストを感じてしまったものに、ジョサイヤ・コンドルの設計した岩崎邸を見学したときにも感じたものだ。岩崎邸は歴史様式の洋館で総2階建てのものだが、2階の木造バルコニーが、サワラ材生地仕上げのようで、あまりに綺麗で、素足でも快適で驚いたのでした。真冬で東京では珍しい15センチほどの積雪があり、室内の厚手の絨毯でも足裏が冷たくてしかたない常態だった。にもかかわらず2階のバルコニーは、壁の照り返しもあり、まるで温室でもあるかのように暖かく、特に床は太陽熱でちょうど温まっていて、生きた心地がしたものだった。こう言うことが維持している管理者の心持ちなのか、設計として、あるいは大工の心持ちとして作られたから現在にも維持されているのか、どうにも分からないが。使う立場からの感触と言うのも建築評価に入れて行くことが、新しい建築価値発見になってゆくと思うのでした。
今回も熊谷記念館で同じように実際に使うことで作り手が込めたものが、単なる洋風テラスではなく、日本的なものに変換しているように思えて、その居間からの工法上の無理したとさえ思える段差の低さ(15センチ)とか、居間への平面的なプロポーションが濡れ縁のようだとか、庭への段差がまた15センチくらいになっているとか。見学したときは4月だったが、鉄平石が暖まっていてお尻がポカポカしてとても快適だったのです。日本の濡れ縁のような感触で作られたテラス、という評価が必要だと思う。建築というものが、この感触の次元で伝えている物を丁寧に拾って行くこと、そしてそれを設計の価値として行くことがとても大切なことなんだと思うのでした。
最後に熊谷邸の建築解釈に住宅として建てられた当初形と、その後記念館として改装された現在形との違いをしっかり読み込めてない恨みがあることを付記しておきます。それは展示室1・2が二間続きの和室と、そこに奥行き1間超の広縁になっており、洋間は談話室のみと言う当時の典型だったかも知れないとも思えるからです。(展示室1・2の書を見ている人が正座している人がいましたね。)
2o16123o
mirutake
庭園は居間の前には芝生が展開する。
ビュースポットと思われる樹木がチョットすかすかしているなー。木を透かして隣家が見えているが、当初は隣家がなかったか。もっとビュースポットになる茂った高い樹木と少し樹木の厚みがほしいなー。これだけの広さがあるのなら、居間から見つめられる樹木というのが基準だと思っているだが。このころから室から眺める庭のビューポイントである高木の密度を失ったのだろうか。
和室前は密集している。
中木の紅葉などがあってから、低いサツキの丸刈りがぽんぽんある領域があり、土はどて状にだんだん高くなっていて、石碑があり、苔が生えている。樹木の抜けている一番奥には竹が密植されており、まとまった竹林風になっている。これらの圧縮されたビューが和室の腰窓から確認できると思う。踏み石はないが、樹木の間を散策するようになっていると思う。竹林はまとまった矩形に配置され、放置して茂りすぎにはなっていない。庭北和室側は苔が厚い。