(国立国会図書館蔵)明治36.2 (1903)
桂離宮では1)室内から眺める庭、2)回遊して眺める庭、そして3)船で遊覧しながら眺める庭、三通りの方法があった。
タウトの時代は1+2が可能だった。3は足元を気にすることなく回遊できるから、流れる状景の展開が気持ちよいことだろう。もっとも庭に集中できる鑑賞法は室内からが良いかも知れない。(月見台左側濡れ縁に手摺りが付いている、樹木が大きいのが現在とは違う。)
----体験外記----
桂離宮=古書院・月見台から月波楼・濡れ縁へ 1615-1662
設計;八条宮家初代 智仁(父)1579-1629(50) 14年間建設
八条宮家2代 智忠(子)1619-1662(43) 20年間建設
photo by Internet+book
古書院には濡縁から張り出して着けられている、屋根無しで床だけの月見台がある。中秋の名月が正面に上がってくる方位設定という。屋根のない外部の設定は、頭上に昇るまで眺め続けたのだろう。昇り始めは大きく見えるから、月の模様も観察したかも知れない。また池に映る月影は良く見えたのだろうか。
この月見台は巾4m×奥行き3mの平面に、高さは1.3mもあるにも拘わらず手摺りはない。外部にあって、一応安定した床面だけを確保し、外であることをめいっぱい満喫したい設定で、月が中天に昇っても観月できる破格の設定といえる。
ここで月を観るなら、夜間にこの簀の子の上に立つことになる。
床材は竹だから節があって凹凸のある床と言うことになる。なんと不安定な落ち着かない設定ではないだろうか。何故床材は竹だったのだろう。竹簀の子張りは、下が透けて見えるのだから風が通って涼しげではある。中秋の名月は西暦なら9月中旬で、だからすうすうするはず。また無月(曇り月)とか雨月というのがあって、なかなかお目にかかれなかったり、お目に掛かったり。こんな不定期状態だからか、子の世代に代替わりしてから、室内で安定して月を観る場=月波楼と呼ぶ小さな茶室が作られたのではないか。
古書院濡れ縁前の月見台※1
月見台も月波楼もどちらも中秋の名月が正面に観える角度に配置されて、池に面して並んでおり、月影=池波に映る月をも眺める設定ということ。月見台では8mほど離れてなだらかに池になるが、こちらはもっと接近して3mほど。そして池から3.2mもの高い石垣の上に建てられた。この高さと池の近さが、月波楼の方が早く月が観えるということと、池波に映る月を足下に眺めるためにも、池が近く、見やすく作られたことがわかる。また昇り始めは大きく見えるから、月の模様も室内に身体を置いて観察する方が良く見えたかも知れない。
月波楼とは「月は波心に点じ一顆の珠」という歌から採ったといわれており、池に映る月影に真珠のような輝きを見ていたのだろうか。当時の人々の夜間の視力というのは、現在の私達とは格段に違ってしまっているはずだ。だからこそ真珠の輝きと形容されたのだろう。
月波楼 南南西側※8
それにしても月波楼は垂木や母屋をも竹にしてしまったこと、小屋組のあまりに単純な支え方には驚くばかりだ。軽さの創造=仮設の演出がすごい。この小屋組は扠首(さす)構造になっていないと支えられないと思う。部材の組み方を見るとそうなっているかわからないが。
月波楼小屋組※6
また敷地写真を見ると、桂の地には竹林が多く、特に東側が厚い。そんな地の利もあってか、竹をテーマにもしていると言うことですね。竹垣の多様な造りしかり、濡れ縁の床材に多く使われ、小屋組にも参加し、雨樋にも使われている。元々壁下地に使われる木舞竹と言うのがあるから、それを露出した 下地窓というのが田舎屋の連想で茶室に使われた。敷地内で取れる竹を、ここで多様に使って見せて、質素を旨としたと言うことだろうか。
タウトも桂離宮の竹に反応して竹細工の可能性を見いだしていたのですね。旧日向邸に見られる階段を下ってすぐの手摺りや、社交室にぶら下がる幾つのも照明の吊り下げに使われた。また高崎での竹細工工芸品開発に力を注いだ。
google航空写真
google航空写真
左下が古書院、月見台が見える 右下が月波楼
古書院まえに月見台は平面形w3900×d2900×h1300の竹簀の子貼りだ。
これは全く屋根のないもので、3方向を庭園に開いた空間の感覚とはいかなるものだろう。すなわち外に出て外部を最大限味わう為に手摺りはなく、空中に掲げられた床だけの設定は、暗くて歩き回るには危ないが、浮遊感さえあったのではないか。私達日本の座るという生活習慣は、こいう手摺り無しの設定には向いているかも知れない。いったん座ってしまえばまず落ちることはない。屋外の臨場感いっぱいの平らな床面を作った。床材の竹は仮設感の演出か。
しかし私たちはここでもう一度月見台という外部にあって月を見る行為が、曇りや雨や雪に阻止されるという以上に、外部であると言うだけで、無意識は外部にある身体を支える為に集中してしまうから、観賞に向けて意識を集中することになかなか振り向けられなくなることに注意しよう。竹簀の子の不安定な床に身体を保つこと、風が吹き付けることや、陽の強さを身体が受けとめていることを思い出そう。おまけに蝉の音、虫が襲ってくる、身体が熱いとか冷えるようになったとか、なかなか月見という主題以外に無意識は対処せねばならぬものだ。おまけにここでは外部にあって夜間に月を見ることに集中しようと言うのだった。夜間という環境圧=闇夜は、無意識を不安にさせる。これに打ち勝って月を観賞することになる。月見台の浮遊感、夜間には浮遊感は相当なものだったかも知れない。
(国立国会図書館蔵)明治36.2 (1903)
樹木に隠れて見づらいが、左から古書院と月波楼、2棟が近接して建っているのが解る。間の樹木が現在の写真に比べてやけに大きい。台風などで倒れて植え替えられているのかも知れない。全体に現在より樹木が多く生い茂っているのが解る。タウトはこの状態を見て感嘆したのかも知れない、と想像を逞しくしてしまう。(タウトが3回目の桂の見学を申し込んだとき、台風に見舞われた後だったので、かなわなかったという。台風で倒木があったと言うから、これ以降植え替えられたと言うことと、整備が進んだと言うことでしょうか。)
それに対し月波楼では身体は室内にいながら、外部を観賞しようとする設定だ。
身体が内部にあれば、かなりの無意識の安定が図れるはずだ。観賞すべき外部や、月と一体の庭園の環境を観賞することに意識は集中しやすくなっているはずだ。室の設(しつら)えとしてはなんと言うことはないものなのだが、外部に対してできるだけ大きな開口を取るため掃き出し窓を設け、後は身体不安を受けとめてくれる手摺りがあればいいのだが、直下が崖上になることはいただけない。だからすぐ崖にならないように、受け止め装置としてもう一つ=簡易な濡れ縁を付けるとしよう。この濡れ縁は始まりだけ3枚250は杉板を張り、残りの380を細竹貼りとした。この貼り方は一体何を言っているのだろうか。
これが世代交代の主が発想した新たな観賞の場の設定意思がこのような「月見縁」だった。
どうしてもこのような新たな設定でないと、月観賞としての桂離宮は、古書院前の月見台だけでは目的を果たせないと感じていたのではないか。
google航空写真
左下が古書院、月見台が見える 右下が月波楼
※3
google航空写真と同じ位置を実測図から切り取り
※3
グリーンに塗ったところは整形生垣で高さは2500くらい、中門から入ってくると御興寄を隠していることが解る。月波楼への飛び石ルートに導いているかのようだ。bookでもnetでも ここを撮った写真には出会っていない。
この事を裏付けるかのように、月波楼の増築にはかなり平面計画に無理をしている。
中門から御輿寄までの中庭空間が、きれいな矩形で確保されていない。これはどうしたことか。御輿寄に向かって左側の塀の延長ラインより、月波楼はでっぱている。おまけに月波楼へのルートを植栽によって確保するように、中門さえ右側に大きくづらされ、月波楼への飛び石ルートのため『真の飛石』ルートが超斜めになってしまっている。中門から眺めると、御輿寄の石段の一部しか見えないほどづれているのでした。何故ここまで破調の平面計画となったのか?必要な物を必要にデザインして行くことの結果なのか。(良い意味の桂離宮の機能主義)この結果がマニエリスムでとても良いと判断されたのか。池波に映る月影を鑑賞するのは、この位置しかないと判断されたのだ。だから配置上ではこのような無理せざる終えなかったのか。
月波楼に注目していると、中門から御興寄への関係にも注目せざるおえなかった。
平面図を見てもらえれば明なことだが、御興寄に向かって『真の飛び石』が斜めになっている破調のデザインが良いかと思うが、それでも飛び石が中門すぐのところが直角に曲がっているのは輿を運ぶには歩きづらそうだ。そして左側の塀が途中で切れて古書院への直接路になっているルートと、月波楼に向かう飛び石と二つ設けていること、そして何よりも二つの築山と矩形刈込み植栽があって、『真の飛び石』ルートに迫っており、大きくバランスを崩している。凄く変だ。これって、どうしてこんなにメインである御興寄へのルートを変形させなければならなかったのか?マニエリスムだけでは説明つかない。あまりにも整形に逆らっているではないか。これが美は乱調にありと言うことなのでしょうか。誰か気づいていたら教えてください。
私が考えあぐねた末に思いついたのは、ここには親子の葛藤がある。其れがごり押しではなく、救済されるためには正当な理由を必要とする。それはここが都市から離れた山懐(自然と一体の場所)であることを、ここでもう一度強調したデザインとする=月波楼への飛び石ルートの築山優先としたから、御興寄への貴人ルートは寄せられるのがよいと判断された、と想うしかないのですが。
それはデザインの正調=権力の主張になること嫌っており、月波楼へのルート=築山・整形生垣を利用したともみえる。
2o13o811 mirutake
※7
御興寄から中門方向を見ている写真が見つかりました。築山と整形生垣が見える。右上に檜皮葺屋根の月波楼が見える。
中門からのアプローチで整形生垣が御興寄を隠していることがよく解る。
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月波楼(桂離宮)から軽井沢の山荘へ
桂離宮の月波楼には掃出し窓に簀子縁の設定で、室内から月を鑑賞する場が設(しつら)えられている。
その簀子縁は人が出るような大きさではなく、幅は建物の幅いっぱいだが、奥行きは700くらいしかない。しかも内側から250くらいが板張りなのだが、残り380は細竹張となっている。また手摺りはとても低く400くらいの高さに、太竹が水平に一本渡されているのみ。支柱は1間毎の角柱となる。これは人が簀子縁に立って月を鑑賞するような作り方ではない。3枚くらいの板張りがあってからの細竹貼りの繊細さは「ここに立たないで!」と言っているようだ。(あるいはお尻は畳で足はこの3枚の板に載せたのかも知れない。お行儀悪いからそれはないか。)それは掃出しの窓だけだと、窓から下に700位の高さの石垣犬走りがあり、そのまた下には800くらいの崖となって、また1700下がって池となる、結構高い設定となっている。この高さから池に映る月を眺める設定なのだ。ゆえに掃出し窓の前には建築のセオリー通りに濡れ縁が付かなければならぬが、石垣犬走りが高いので手摺りを付けたと言うこと。池に映る月を下方に眺めるなら、掃出し窓に即手摺りでよさそうなものだが、掃き出し窓の敷居の次が絶壁というのはいかにも恐ろしく、貧相で野蛮な感じになってしまうということなのだろう。でも外部との臨場感は造りだしたいと、浅い濡れ縁となったと思われる。この身体は室内にあって安心していられるから(無意識)、意識が外部を自在に浮遊する。どこかで出会った絶妙な建築設定だ。
月波楼の掃き出しと濡れ縁((ウィキペディァ))
※2
軽井沢の山荘と掃き出し窓バルコニー※4
月波楼の掃き出し濡れ縁の写真は「軽井沢の山荘」と見比べるなら、このアングルの写真がよいかもしれないと、並べてみる。すると、なんとL字型が反転しながらも同型の開口ではないか。なんと言うことか。「軽井沢の山荘」は正面の矩形の開口だけの方が、空中の樹木に引きつける感じが強くよいのではないか、と思ってきた。けれどそうではなかった。L字型になっていることが、外への巻き込まれ感がよいのだった。
実はこの月波楼の設定は吉村順三の「軽井沢の山荘」2階居間からのバルコニー設定を髣髴とさせるものなのだ。それがタウト関連で桂離宮廻りを漁っていて、見付けたのが「月波楼」の掃き出し窓に濡れ縁のこの写真だった。「あれ、これって軽井沢の山荘じゃない?」掃き出し窓に濡れ縁という、日本の住まいのセオリーそのままで、柱が真ん中に1本立ち障子が残る姿は古書院と同じ古式に則った。だから引き込み戸による開口のプロポーションは軽井沢がすばらしい。ただ手摺りが1本だけ廻り、それが竹製と言うところがちょっと違うがほとんど同じ。室内が畳というのも、方や室内も板張りだが材料の違い以上に、軽井沢の山荘では室内が板張り故にバルコニーと錯覚させる効果もあった。しかし奥行きの小さいベランダ(濡れ縁)と言う設定が、近世の桂離宮にあったとは、すごい驚きです。
タウトにしてもこの桂離宮で、ヨーロッパにはない「室内から眺める庭」という設定に、驚きをもって「涙は自ずと眼に溢れる」p144ということだった。ヨーロッパでは風景庭園というのが未だ主要なものではなかった。彼の地では庭園といえば幾何学図形の整然と刈り取られた植栽の秩序であり、もっぱらそれを散策して楽しむところのものだった。(その平面に表れた幾何学図形を見るためには鳥の視線が必要だ、いや神の視線。これってナスカの地上絵と同じなんだけど。鼓さんが、ヨーロッパでは神が全てとなるとそれだけでその他のもの全てを切り捨てるところがあり、自然というのは無秩序と見なされた、と書いていたのを思い出す。)だから、桂離宮を見たタウトは相当びっくりしたはずだ。ヨーロッパではまだ始まったばかりだというのに、ここ桂離宮にはものすごい密度で室内から眺める風景庭園があったのだから。
だからこそ、俺もやってやるという思いで、室内から外を見る設定を、「もっと奥から見る」に進化させた。この月波楼の「室内から眺める池波の月」の進化版が、日向邸=「室内の奥まった高みから眺める海」という設定を創造させた。
タウト 旧日向邸 奥の間から掃き出し窓を見る 手摺りのみ※5
ここに月波楼―日向邸―軽井沢の山荘というラインが引けるようになる。吉村の軽井沢の山荘の「樹木を見る」設定は、月波楼の「池波に月を見る」設定からきていることになる。なんということか、これが伝統を踏まえていると言うことか。日本建築に精通する吉村順三という像がはっきり浮かんでくる。
2o13o7o3
注:この文章を書けたのは、「西洋の庭園」鼓常良 創元社新書1961に出会えたおかげです。
ここには西洋と日本の庭園の違いが、明確な文章で取り出されており大変驚きました。庭園なんて全く興味のなかった私でも、ぐんぐん引き込まれてしまうものでした。
ヨーロッパでは自然は無秩序なものと考えられており、しっかり人間が手を入れなければならぬもの、自然を=庭園を建築化するというもので、広大な庭園を建築と一体にデザインするというものでした。そして土足の文化は、簡単に外に出られるのですから、自然=庭園は外に出て味わう、男女の交換の場だったのです。様式的な思想の行きづまりから、19世紀後からは風景庭園という考え方があらわれました。近代になっては市民の交換の場を作るのにも、手間もそれ程掛からず、次の様式でもある、近代の風景庭園が求められていたのです。
そんななか日本では平安の時代から正に風景庭園を求め続けてきていました。風景を求めることは、全国の有名風景の模写やミニチュア化であるとともに、自然の断片化として作られてきました。もっと進むと抽象化として、石や砂だけで海や風景を表すことさえ進めてきていました。そして回遊式庭園と言うことや、日本独自の船で池を回遊すると言うことも生まれました。それでも決定的な違いは素足の生活から、雨や床からの湿気などの配慮から高床式であり、外に出るには履物を履くという次元の移行を必要としていました。そこに雨や雪でさえ風景を眺めるという、日本独自の「室内から眺める庭園」が重視され発展してきていた。その結晶が桂離宮だった。
そしてこの完成された風景庭園を見たタウトの驚きは相当なものだったと思わずにはいられません。なぜならその「室内から眺める庭園」の驚きが、建築作品として「日向邸=室内の奥まった高みから眺める海」に結晶したのですから。
こんな予想の中からタウトを想うと、つぎには日本の建築界のみならず、文学界や一般の人にまで影響を及ぼした、文章としての表現で桂をどう評価し書いたのか、自分として掴んでみたいと思わずにはいられなかった。そこで「永遠なるもの―桂離宮」をタウトが何処に感動しているのかと注意して読んでみる必要を感じたのでした。そこにはかつての私のイメージしていたタウトの桂離宮=柱梁の作る面の構成としての桂離宮(石元泰博1953=丹下健三)は全くなく、風景庭園の構成美に感動しているタウトを発見したのでした。そうここで発見を使ったのには、かつてタウトは桂離宮の「日本庭園」を再発見したのだと指摘されたことがなかったからです。
ではそこを岩波新書の「日本美の再発見」「永遠なるもの――桂離宮」からすこし抜き書きします。
私達は、中門をくぐって、いよいよ御殿の前庭に足を踏み入れた。最初、玄関(御輿寄)は、高く生簸に遮られて見えなかった。二、三歩あるくと、敷石はやや厳格な性格を帯び、屈折して斜めに簡素な御輿寄せに向っている。広い玄関は、このうえもなく簡浄で、仰々しいところは微塵もないのに、しかも端然とした品位を具えている。ここで私達は靴をぬぎ、まず小さな玄関の間に入り、ここからさらに大きな玄関の間(鑓の問)に進んだ。その向こうに一つの広間(古書院二の問)が連なり、この部屋の前の広縁に立つと、明るい陽に照された林泉のすばらしい景観が、私達の眼の前に展開された。
私達は、この広縁に張出してある竹縁の上に立った、これは月見台と呼ばれ、ここから池水に映る満月の影を楽しむのである。水を隔てて、むかいのやや小高い茂みのなかに、一基の石燈寵がある。下村氏の説明だと、このような月の明るい夜、燈寵の灯りは螢を誘いよせ、螢の光はまた水の面に映じるのだという。
静寂である。折々、どこからかさわやかな鳴蝉の声が聞えてきては、またはたとやむ。魚は、幾たびとなく鱗を水の面に躍らし、またぱしゃりと音をたてて池中に沈んでいく。小島の上に遊ぶ亀の甲羅は岩の色と見分けがたい。
私達は、今こそ真の日本をよく知り得たと思った。しかしここに繰りひろげられている美は、理解を絶する美――すなわち偉大な芸術のもつ美である。すぐれた芸術品に接するとき、涙はおのずから眼に溢れる。私達は、この神秘にもたぐう謎のなかに、芸術の美はたんなる形の美ではなくて、その背後に無限の思想と精神のつながりとの存することを感得するのである。
いま私達に見えるのは、池中の島々と岸との無限の変化を示している左方の庭苑か、花くれないのツツジの列と簡素な橋とで、右側の単純らしい庭から限られている様だけである。月見台の右方を、台に真近く一本の松があり、紅い躑躅の生垣はそこまで続いている。
私達は、ここにしばらく立ちつくして、互いに話すべき言葉を知らなかった。そのとき下村氏が、まず御庭に出て池のまわりを廻る方がよくはないかという。
私達は、まず中門まで引返した。そして行きどまりに一本の小松のあるさっきの道の生垣に沿って進み、鄙びた茶室風の待合のそばを通りすぎた、――ところがこの見事な芝生の傍らに、数株の大蘇鉄が植えてある。これは確かに、この美しい環境にふさわしからぬ後年の作為に違いない。池に架せられた小さな橋を渡ると、そこに小さな滝が呟くような響を立てて落ちていた。
しかし池景は、ここでもまた中正の趣きを失っていない。ところが対岸に立つ茶室(松琴亭)との距離が挾まるにつれて、ここへくるまでの田園詩的な景色は次第にその様を変えてきた。そこに現われるものは荒磯を思わせる粗石である。磯浜に見るような円い石からなる小さな岬は、その突端に石燈寵を抱いて寂寥を聯っている。茶室へ通じる石橋までの道は、巨石を擁してますます峻厳な相貌を呈し、あたかも近づく人を斥けるかのようである。この橋は、長さが六メートルもある角石で、両端は大きな隅石で支えてある。
ここで私は、今いちど引返して、和やかな田園詩が厳粛な相に変わるところまで戻り、そこから右方に離宮の建物、左方に茶室を眺めた。上野氏はいった、「いま私達は、実に決定的な転換点に立っているのです」。
昔、茶の湯の賓客達は、この橋を渡って茶室の定めの間に赴いた。それだから一切のものは、精神の厳粛な集中を促すように工夫せられたのである。しかし茶の湯を終えた客が、いったん狭い茶室から出て、宴集のための広い部屋に入ると、明け放たれた障子の間から、小さな島々のある池景と、背景に御殿をもつなごやかな林泉とが開けるのである。私達は、この部屋の縁に腰をおろした。するとそこから陽の光のなかにきらめいている先刻の小滝が見えた。落ちる水の音さえ聞えてくる。私は部屋のなかを顧みて、むかいの床の間を驚きの眼をみはってややしばらく眺めざるをえなかった。床の間にも襖にも、青白二色の真四角な奉書紙が市松模様に張り付けてある、このような意匠は、私がこれまでかつて見たことのないものであった、ほかのところだったら堪らない悪趣味に堕するであろうと思われるものが、ここでははっきりした意味をもっているのである。この一見異様な意匠は、ここから見えかつ聞える滝の反射を意味するものである、――この意見には二人の友人も賛成してくれた。
この茶室は宮殿に特有な、様式の厳格さをひとつももっていない。萱葺屋根も丸木柱も、また家の周囲に配置された石も、すべて田舎の趣きである。しかし一切のものは相寄って一つの見事な統一を形づくっている、誰かあって、この様子を真似でもしたら、滑稽極まるものができるに違いない。
>>p142-147
タウトはこれだけ庭園に感嘆しています。
古書院内部からの林泉の眺め、和やかな田園詩が厳粛な相に変わる庭園デザイン、小滝と茶室インテリアとの相関、全てが田舎の趣の内に統一されていると。それはタウトの意識の中に近代の庭園を何とかしなければと言うことがあったから、桂離宮の庭園に現れた表現を捕まえてしまうのだと、思わずにはいられません。
けれど私達には、桂離宮の庭園表現をタウトの言葉をここに取り出すことはできても、庭園表現自体への私の感動がないのでした。なんと言うことか。ヨーロッパ化している私達の感性は、それがもう一度ヨーロッパを通ってきた風景庭園が示されないと感動できないものなのだと思うのでした。
このことは日本庭園を私たちが鑑賞するとき、その手法が日本趣味を表しており、それはキッチュにしか見えないと言うことです。それは日本庭園自体の発展が、その手法の抽象化が海を表す州浜とか、荒海を表す石の構成とか、はたまた日本の名所絶景を集めた天橋立とか、桂離宮の年代でさえこういうステレオタイプの貴族趣味(大衆迎合にしか感じられない)のようなテーマを追ってしまっている。これでは私たちには感動できないし、まずこの事が気になって当然次へは行けなくなります。
それでもタウトとか、レーモンドとかの作品に接していて、彼らは日本趣味を喜々として取り入れていると感じます。でも私達にはやっぱりこの異国趣味がネックになってしまうのですが、彼らは愛らしいものと受け入れ、その向こうに表現を見ているのです。たとえば(前に上げました)タウトの桂離宮論に松琴亭へのアプローチに見る、田園風景から石の段階的な使用により、哲学的な意識に捕らえられて行くと書かれ、庭園表現の展開に構成を見ています。こういう庭園の表しているものを解説してくると、すこしづつ見方は変わってきているかもしれない。
それはこれがもう一度彼らの感覚を通して、すなわちヨーロッパを通ってもう一度日本に戻ってきた時に、現代日本のランドスケープデザインの手法として戻ってきているかもしれないと想像するのでした。
(かつて2000/04-05に東京ガーデニングショウというのがありました。そこで私が感動した庭園は、植栽の高さや近種の違いを使って、外部空間に内部空間のようなまとまりを体験させる構成を作っているものでした。間違いなく新しい風景庭園の手法が想像されてきていると感じます。)
今回ネットで写真を集めていて、印刷で見ているのと結構違うことに驚いている。実物を見なくてはいけないのだろうが、木造は結構貧相に見える。それが渋いと見なせる私たちの感覚は良いと思う。けれどもこの皇室の離宮が本当に海外の人に理解されるのだろうかと思ってしまった。タウトはこの質素さが、市民的で良いと言っている。ヨーロッパでもこのくらいの小さな離宮というのはあるが、その決定的な違いは彼の地では下層の階層に見せびらかすということが必ずあるんだが、桂離宮にはないというのが凄いと言っている。このように捕らえられればいいが、一般外国人にはこれを見ても貧しい国なんだとしか理解されないのではないかと思えるのだが。特に庭園は風景庭園や風景抽象庭園しか無く、ヨーロッパのような権力を示す為の幾何学庭園が無いのだから。
参考資料
桂離宮 宮内庁管理部管理課参観係 (桂離宮施設案内動画あり)
国立国会図書館デジタル化資料 写真の中の明治・大正
桂離宮(ウィキペディァ)
ブルノー・タウト(ウィキペディァ)
吉村順三(ウィキペディァ)
ブルノー・タウト 旧日向邸 (けんちく探訪)
吉村順三 軽井沢の山荘 (けんちく探訪)
写真図版出典
※1「桂離宮」斉藤英俊 撮影 岡本茂雄 小学館
※2「終わらない庭」 写真 水野克比古 淡交社
※3「建築と庭」西澤文隆「実測図」集 建築資料研究社
※4「吉村順三作品集―1941-1978」 (1979年) 新建築社 (1979/03)
※5「ブルーノ・タウト 1880‐1938」 マンフレッド シュパイデル (著), 撮影 三沢博昭 セゾン美術館¥ 1,500 中古品
※6 何ヶ月か前にネットを漁る中で見付けたものだが、googleを検索しても出典HPが見つからなくなってしまった。出版本では勿論無いし、月波楼の内部写真では間違いなくベストアングルと思う。
※7「京の御所と離宮」写真 渡辺誠 講談社
※8「桂離宮」 西川 孟内藤昌講談社 1977
※9「桂離宮」伊東ていじ十文字新 新潮社 1993
※10「桂離宮」石元泰博磯崎新 1983
参考文献
ブルノー・タウト
1936 1960「日本の家屋と生活」[単行本] ブルーノ タウト (著) 篠田 英雄 (翻訳) ¥ 2,730
1939 2012「日本美の再発見」増補改訳版 (岩波新書) [新書] ¥ 735
1940 1992「日本文化私観」(講談社学術文庫 (1048)) [文庫] ¥ 1,155
1952 2007「忘れられた日本」(中公文庫) [文庫] ¥ 780
1981「ブルーノ・タウトと現代」 ―「アルプス建築」から「桂離宮」へ [単行本] 土肥 美夫 (著, 翻訳), J.ポーゼナー (著), F.ボレリ (著), K.ハルトマン (著), 生松 敬三 (翻訳) 中古品¥ 1,800より
1968 2007「終わらない庭」三島由紀夫 井上靖 大佛次郎 伊藤 ていじ 淡交社
>>45 「仙洞御所 三島由紀夫」より
遊園術において、政治学的な比較も亦、芸術的哲学的比較と同様に有効であるにちがひない。仙洞御所では、上皇といふものの特殊な政治的位置と、その庭の構造とは、わざと巧まれたもののように似合ってゐる。もし上皇といふ地位が、ヴェルサイユの庭のやうな壮大明晰な統治の図式に日々直面してゐたら、その地位自体が甚だ変ったものになったかもしれないのである。
それを別としても、日本の遊園術には、寝殿造の庭のやうな円満た遊興形式にせよ、中世以降の隠遁者流の庭にせよ、権力そのものの具現であるような庭の形式をかつて知らなかった。そこが安息であり、権力否定の場であることは、金をかけた庭ほど目ざしてゐるところのものであり、それは精妙な偽善の技術とさへ見えるのである。
>>55
理想的な庭とは、終らない庭、果てしのない庭であると共に、何か不断に遁走してゆく庭であることが必要であらう。われわれの所有をいつもすりぬけようとして、たえず彼方へと遁れ去つてゆく庭、蝶のやうに一瞬の影を宿して飛び去つてゆくやうな庭、しかもそこに必ず存在することがどこかで保証されてゐるやうな庭、……さういふ庭とは何であらうか。
1986「つくられた桂離宮神話」 (講談社学術文庫) 井上 章一 (1997/1/10) ¥ 1,008
1992「桂離宮隠された三つの謎」 宮元健次 彰国社 中古品¥ 390より
1998「日本庭園のみかた」宮元健次
2001「日本建築の見方」宮元健次 学芸出版社¥ 2,520 単行本
2003「建築における日本的なもの」 磯崎新 新潮社 ¥ 2,415
2012「桂離宮日本建築の美しさの秘密 (日本人はどのように建造物をつくってきたか)」 [大型本] 斎藤英俊 (著), 穂積和夫 (イラスト) ¥ 1,680
1960「KATURA 桂」 写真 石元泰博 丹下健三 造型社 桂―日本建築における伝統と創造 ¥ 69,978 中古品
1983「庭園と離宮」 磯崎新 講談社 ¥ 37,999 中古品
1990「桂離宮」斉藤英俊 撮影 岡本茂雄 小学館 名宝日本の美術 第22巻
1997「建築と庭」西澤文隆「実測図」集 建築資料研究社
1993「桂離宮」伊東ていじ 撮影 十文字美新 新潮社 (日本名建築写真選集) ¥ 2,650 中古品
1961「西洋の庭園」 (創元選書) [古書] 鼓 常良 (著) 東京創元社 中古品¥ 1,500より
>>21
桂離宮のばあいでも、御殿から庭を眺めたときはやはり前にいった対立関係が坐生活の方から生ずることを指摘したいのである。なぜなら、御殿に坐って庭を見渡すこの景観が、庭園に統一を与えているのである。桂離宮の庭園を廻遊すれば、歩を移すごとに景色はかわるといわれる。そういう多くの景色の断片は、御殿から見渡して一つの景色にまとまるように工夫されているのである。歩いて見まわる景色の多様さを御殿からの展望で一つの庭園に統一しているのが、芸術家の技倆である。