レーモンド「夏の家1933(45)と吉村順三「軽井沢の山荘1962(54)
   アントニン・レーモンド 1888-1976(88) 吉村順三 1908-1997(89)
                      photo by mirutake  2011.10

             

アントニン・レーモンドの「夏の家」と吉村順三の「軽井沢の山荘」が似ており、「夏の家」の吉村の好きな部分を切り取れば「軽井沢の山荘」になるのだとか、「夏の家」の擁壁下が好きで吉村は良く憩っていたと言うはなしなど何処かで聞いたことがある。単純に考えればレーモンドのところで活動し、夏の家で多くを過ごしてきたのだから影響を受けているのは当前だし、そんな話があるならどんな場なのか知りたいものだと思っていた。残念ながら現在のペイネ美術館は平らな敷地に建てられていて、当時の姿は想像すらできない。関係者からは現在の立地ではその良さが全くわからないし、とても残念と言われていた。そんな問題意識すらもてない状態で、影響と言われれば、きっとそうなんだろうと簡単に思っていた。けれど建築空間の質を探っていったら、単純に似ているもないもんだと思えてくるところがあったのです。

私には「軽井沢の山荘」について、そのピロティから持ち上げられた居間部分が抽象的自然というところに向かっているのではないか。それは日本的な外部への関係=庭園へと流れるような床の折り重なりによって、内外の連続性を構成する日本の空間性とは違う、都市的な自然観=土のないペイブされた庭さえも飛び越えた、抽象的自然観があるのであり、それはル・コルビジェのサボワ邸の屋上庭園からきているのではないか、という文を書いた。20050920 そこからしっかりと見直してみないといけないと思っていて、いつか二つの違いについてしっかり書こうと思っていながら、なかなかはっきりしたイメージが掴めないでいました。

ところがここにきて20111030、「夏の家」がペイネの絵画を撤去して、建築空間を展示する催しがありまして、それを体験できました。そのバタフライ空間の通常の木造では味わえない袈構を、伸びやかな外部への開放感を満喫できました。それと共に、元設計当時の写真の展示がありまして、今の建築にはない居間と擁壁の関係を見ることができたのです。そこには今の平地に立つ建物とは違う、豊かな擁壁と人との関係が写っていたのでした。そこでまずは今年の「けんちく探訪」のテーマ写真は作りましたが、そのまま放置され、5月の連休になってやっと時間が取れて、文を書くこともできました。

(豊かなイメージを教えてくれた竣工当時の写真は、著作権があるのです。文で説明するのもなかなかしんどいです。読んでくれる方もとてもしんどく解りづらいことでしょう。もともと写真の力に頼って始めた「けんちく探訪」です。初心に返って、とがめられたらすぐ撤去と言う覚悟でいいやとばかりに、掲載してしまうことにしました。竣工から78年たつので良いのではとも思っています。)


まずレーモンド「夏の家」をよく見て行こう。
建築というのは結構ちょっとした違いが空間体験的には大きな違いとなって感じられるものではないかと思う。
それはこの「夏の家」の現存するものと、竣工当時の写真に表れたオリジナルな立地との違いだ。
現存するものはレーモンド「夏の家」がしっかり保存されているもの。以下の写真は内部を公開した2011年10月もの。内部はなかなか開放感あふれる山荘と言った感じ。丸太をそのまま表しで使ったもので、長手方向に登り梁を架けた、通常架構とは違う掛け方をしているものだ。(例えばこの登り梁は通常架構では省略できるが、ダイナミックな空間の方向性を示す表現に必要だった。)





この屋根の折れるところに集まる鋏梁はなかなか苦しい収まりになっている。

(この設計はル・コルビジェの南米チリでのエラズリス邸計画案1930=全体がRC造を木造に置き換えて、屋根と2階床の木造袈構はコル案をそのまま使ったもので、規模は小振りになっている。コルビジェが実現できなかったものを、どうしてもその内部空間を現実化して体験したかったようだ。※1 1933。レーモンドは「夏の家」発表時にコルビジェ原案であることを建築誌に載せるも、見落としたコルとの間で行き違いがあったが、最終的にはコルビジェ全集に、この「夏の家」の写真を何枚も載せて、すばらしい翻案だと褒めている。)


エラズリス邸 立面図 断面図 室内パース 平面図


内部は逆「へ」の字型のバタフライ空間。
左側の吹き抜け窓からは浅間山が見えたとのこと。右へ上昇して行くと、製図室となっている。これだけ豪華な斜路なのだから、レーモンドの書斎か、寝室か、ゲストルームかと思ったが、そうではなかった。(エラズリス邸はゲストルームと思われるトイレとシングルベットが配置されている)

こちらの開口の方向に浅間山が見えた。中間に梁と窓ふき用に棚を作ったとのこと。


LDの開放感は見事で、バタフライ型の空間作りが今までの木造袈構では得られない広がりを作っている。上部までの高い開口は浅間山の見える左側(元設計西側)しかなく、LD南側大開口はレ−モンド得意の柱芯外し建具によって、大きく横長の掃き出しの窓が外部と連続感を作る。

8枚のガラス框戸(かまちど)を開けると、全て右側の戸袋に収まってしまう。夏や中間期には開け放っていたんだろう。レールは2本だ。ガラス戸の外側に柱があり、そして雨戸を仕込んでいる。レーモンド自邸や旧井上邸などとともに、現在はガラス戸も柱の外に納めるのが常道だ。

この掃き出し窓からは濡れ縁が500ほど出ており、そこから土の部分が2200ほど有り(平面図か読みとる、結構広い)、それからが擁壁になる。この500ほどの濡れ縁だが、今回プランをよく見ると、6カ所に付いており、そのうち擁壁前の外から近寄れない濡れ縁を除くと、LD南のW7200西のW3600、北寝室にW2700そして別棟のドラフトマン寝室+倉庫にW3600と4カ所に付いているのを見つけた。濡れ縁は子どもの軒遊びの場として、内遊びから外遊びに移れる前の大切な時間を過ごす場でもある。ここにもレ−モンドの日本文化についての洞察を見ることができるだろうか。濡れ縁ではないが、レーモンドの息子クロードが擁壁際(プールサイド縁)で憩っている姿が写真に残されている。戦前から(1919)来日し日本を愛したレーモンドは、こういう内外の両義的な場を設定すること、建物の廻りが憩える場になる日本建築に気づいていたのではないか。来日したときの大晦日に横浜からの道すがら、人々が道にあふれ交歓する姿に感動していた。※3


配置図 建物の西面に、北西に向かって浅間山が見えると矢印が書き込まれている。

夏の家 平面図 1.LD 2.倉庫 3.パントリー 4.k 5.BR 6.ドラフトマンBR 7.浴室 8.女中室 9.スタジオ 10.プール

ダイニングの外にw500位の濡れ縁その外に土がw2200位ある。

雁行するBR プール


LD外右側(東側)にはプールがある4600×6400。そのオーバーフローした水が擁壁h1800位から落下している。
この写真の子どもはレーモンドの息子クロード7才とのことです。※1

今回の主題はこの擁壁の意味を探ること。
クロードが擁壁の端に座って、水遊びをしている。手摺りもないし、現在では考えられないが、昔はこんな状態でも危ないとは思わなかったのだ。こんなところから良く飛び降りたし、1階の庇くらいなら飛び降りることができた。だからこういうh1800位の擁壁は子どもにとっても親しい物として付き合うことができたのだ。


現在の「夏の家」=ペイネ美術館 201110撮影

竣工当時の「夏の家」 1933 擁壁の上に建てられている。

また南側正面の写真全体に、束立て床になっているのが解る。そして左側端をよく見るとやはり束立てになっている。束立ては濡れ縁だけでなく母屋(本体)まで束立てになっていることが解る。この場合は柱が基礎石に直に建つので石場建てという。当時の軽井沢やこの地方一般の民家の工法なのか、日光からつれてきた大工の工法なのか。当時の一般工法だったと思う。また今回ネットで調べていて見つけた、学会に提出された「夏の家」の論文に桂離宮の雁行平面や高床との類似を指摘していて、ビックリした。※2

私が住宅設計を始めた頃、昭和50年代1975には既にコンクリート布基礎により土台を廻す工法が当たり前になっていたが、独立基礎でも良いというのが金融公庫基準の住宅仕様書に載っていたと思う。戦前である「夏の家」は石場建てによって建てられていたのだ。矩計図を見るとそれが確認できる。当時もそして今も、束立て床や石場立てによる工法が、夏を旨とした快適な床下環境や床上環境を作る以上に、木造を守る床下換気工法として最も優れた工法であることは確認できるはずだ。現在の法規制によるRC布基礎技術基準が、床下の湿気やシロアリに対処できないものであることが発覚して久しい。(レーモンド自邸は土間コンクリートを全面に敷き詰めることによって、床下換気を不要にした工法とも考えられる。)


レーモンド自邸1950 矩計図 足下に土台が無く土間コンクリートの床になっている。

夏の家 断面詳細図 布基礎ではなく石場建てになっている。


写真を見ると大人が、張り出した寝室床下の影で縁台に座ってくつろいでいるのが見える。この大人の頭がh1350として擁壁はh1500と言うところか。土台下端でh1800となる(これは写真から読み取った。図面からだと擁壁でh1300)、これは低い。(この高床になっている床構成は桂離宮からきているという論文をみた。)この男性は吉村順三かもしれない。床張り出しの下でくつろぐのが好きだったと、どこかで聞いたなー。この張り出し床の絶妙な高さの設定を感じる。床下に囲われて丁度居心地の良い、守られた感じを作る高さなのだ。完全に外部なので心地よい通風があり、夏の日差しから完全に守られる日陰でもある。おまけに柱が囲っている感覚を作るのもいい。

この絶妙な守られた感じのスケール感は、「軽井沢の山荘」にはないと思う。「軽井沢の山荘」の玄関テラスからスラブへの高さはh2500-2360と読める。吉村はもっと低くしたかったのだろうが(スケッチではh2270-2095)比較すれば高い。※4玄関先で開き放しであり、包み込み守られた感じはない。ステージという扱いでもあるのだから、余計そう感じる。
吉村の「軽井沢の山荘」は居室下がオーバーハングしたコンクリートスラブの下というのも、その重々しさの感覚が違っている。上と下を切り離すコンクリートスラブであり、木造の居室を軽々と持ち上げる力強いコンクリートと言う表現になっていると思う。吉村が言うように小鳥のようになって樹木に囲まれた空中感というのが目的であり、その意味の2階の視界が成功したと言っている。※4

これはどうしたことか。レーモンド「夏の家」を切り取ったのが吉村の「軽井沢の山荘」と言うことが言われているが、どうも違う感じだ。特に住居下の「場」と言うことでは二つは違う指向性を示していると感じる。それに居間からの外部との関係も、もう一度言うが、吉村は空中の樹木の中が目指されており、同じく吉村の軽井沢 脇田邸でも、同じようにそしてもっと大がかりに、住居部分を持ち上げて浮遊する大きな視界を徹底している。




吉村順三 「軽井沢の山荘」







レーモンド元設計 レーモンド自邸の再現「旧井上房一郎邸」 居間の床からテラスに出るところの低さに注目

これに対し、レーモンドは「夏の家」でも、(少し前にも書いたが)LDの前には濡れ縁が付き、その前にはW2200の土の部分が付いて擁壁となる。ここでは床が土と連続して扱われており、夏仕様の高床ではあるが、土に接続している。この内外の連続性は、これ以後のレーモンドスタイルと言われる木造建築でも踏襲され、自邸1951に至っては床がテラスにh150図面から(現場ではh120と見えた)と言う低さになり、床の外部への連続するデザインが信じられている。日本的な内外の土へと連続してゆくこと、借景まで連なって行く土との関係が愛されていると言うべきだ。だからここでも吉村とレ−モンドの指向は違ってしまっていると言うべきなのだ。レーモンドは当時の日本的な物を発掘し愛した。1933-1962と言う29年間の時間の隔たりも、簡単に似ていると言えない。レーモンド自邸1951と軽井沢の山荘1962は11年の差だ。チェコからきたアメリカ人が、日本的な物の中に近代を見つけ愛してきた。そのレーモンドスタイルと言われる住まい方は=旧井上邸に見られるように、内外が建具を開放して外部のような内部であること、逆に外部だが内部であるような食事室という設定、寝室と食事室の転用など日本的建築意識を愛したレーモンドならではのものだった。その自然な受け入れは、土足の生活を当たり前にする外国の生活習慣からゆえに、内部から外部のペイブに連続して行く床は当然と思われていただろう。だから自然に納得できる物だったのではないか?と言う想いがある。しかしこの事が、そして愛した日本の内-外連続性が、安定した空調室内を求める時代の都市化の嗜好に、後れを取らざる終えなかったと言えるのでないか。
そんな中で吉村は、その師の元で、その息吹を感じながら日本的な物を世界に紹介してきたが、同時代の建築家達と共に新たな都市的自然観を作り上げてくるしかなかったと思う。それぞれの指向の違いを深めてきていた時間と言うことだった。吉村は抽象的自然=都市的自然を志向していた。それはコルビジェのサボワ邸への指向であったと思うのでした。これは以前に書きました。(体験外記  軽井沢の山荘)


                                2o12o5o2  mirutake

書き終わって、かの論文※2に、丹下の自邸へのレーモンドの影響が取り上げられていたことを思い出した。私のところでは直感でコルビジェ=ピロティ住宅>吉村順三=「軽井沢の山荘」ときているが、コルビジェ=1931ピロティ住宅>レーモンド=1933「夏の家」床上げ住宅>丹下健三=1953ピロテイ住宅>吉村順三=1962「軽井沢の山荘」として良いと思えてきた。

そう言えばさっきワイフが何か言ってきたなー。あーそうか、「夏の家」の大人が憩ってる床下は、ピロティなんだと言うことが解っちゃったというものでした。それでも良いけど、それほどの物じゃないよなー。ここがきっと大事なところなんだよ。
これはピロティとは言わないのだけど、言うほどの高さ、下が楽にくぐれるようになってしまうと、物としての親しさが無くなってしまうことが解る。それがはからずも「軽井沢の山荘」と「夏の家」の違いとなってはっきり示された。この親しさの高さにレーモンドはこだわったのだろうか。また吉村のスケッチと、実施の図面となった物の高さの違いは結構ある。
時代の意識、文明の意識、生活意識はどんどん高くしろとなってしまって、所員の若い連中は=図面描いている者は=担当者は無意識だから、じわじわと高くなっちゃうんだろうなーと想像した。大工も知らん顔していつのまにか高くしちゃうしなー。


※1 レーモンド事務所に勤務しレーモンド自伝の翻訳もした三沢浩氏の講義で受けとる。
※2 アントニン・レーモンドの設計方法について ヨラ・グロアゲン
   寸法はおおよそのものとしてください。

google航空写真

紫色印;現状ペイネ美術館 朱色印;かつての建設地と思われる 間隔2000m


     関連 hp
ペイネ美術館
アントニン・レーモンド  フリー百科事典ウィキペディア
吉村順三          フリー百科事典ウィキペディア
軽井沢 夏の家 1933(45) けんちく激写資料室
旧井上房一郎邸 1952    けんちく激写資料室
旧井上房一郎邸 1952    けんちく探訪
体験外記 軽井沢の山荘1962 設計 吉村順三 けんちく探訪
三沢 浩 天才建築家たちの宝庫、アメリカ百年 『建築新大陸アメリカの百年』刊行記念トークセッション
ライト、レーモンド周辺の人と建築の話   三沢 浩
自由学園明日館 建築講座

アントニン・レーモンドの住宅
A.レーモンドの「夏の家」
石場建ての伝統建築


     book紹介
※4小さな森の家―軽井沢山荘物語 吉村 順三¥ 2,447 建築資料研究社 (1996/04)
この1冊に「軽井沢の山荘」を凝縮。日本を代表する建築家、吉村順三の珠玉の名作「軽井沢の山荘」。吉村みずからが山荘を案内し、心地よい空間をつくる手法をていねいに解説。吉村順三が最初に描いた山荘の図面原図も初めて収録。30数年経た現代も生き続ける、小さな山荘のすべてがわかる決定版。

A・レーモンドの住宅物語 (建築ライブラリー) 三沢 浩 ¥ 2,625 建築思潮研究所
A・レーモンドはライトと共に来日、日本の伝統的建築の中にこそモダニズムがあると見抜き、日本に居て建築作品を多く残した。戦前は、日本におけるモダニズム建築の追求をし、その下で前川国男、吉村順三など多くの建築家が育った。戦後は、モダニズムを越える脱近代への展開を図り、地域性と環境とを合体した自然への傾倒をレーモンド・スタイルとして完成させ、真の「日本の住宅」を目指した。

自伝 アントニン・レーモンド [大型本] アントニン レーモンド (著), Antonin Raymond (原著), 三沢 浩 (翻訳) ¥ 8,400

※3私と日本建築 (SD選書 17) A.レーモンド ¥ 2,100 鹿島出版会 (1967/06)

A・レーモンドの建築詳細 A・レーモンド 三沢 浩¥ 3,360 彰国社 (2005/04)
日本のモダニズム建築は、アントニン・レーモンドの『詳細図集』から始まる。日本で独自の建築手法を打ち立て、詳細図を残したレーモンド。若き前川国男・吉村順三らが、設計の道標とした幻の書をひもとき、レーモンドの建築思想の原点に迫る。貴重図版多数収録。

昭和住宅物語―初期モダニズムからポストモダンまで23の住まいと建築家 藤森 照信 新建築社 (1990/04)
藤森建築探偵が、現代住宅の完成をみた「昭和」に焦点を当てて、そこで成された住宅の主要な改革を探偵の目と足で確認し、つぶさに報告し、建築家の果たした役割を明らかにしている。探偵の目は、洋々たる未来を「住宅」に見ているようだ。その証とは―。