体験外記 バルセロナ・パヴィリオン 1929(43)
ミース・ファン・デル・ローエ 1886-1969(83)
photo by kajimoto 2010.10
(Google images)
まずは航空写真で読めるところの配置を見てゆきましょう。
画面下半分一体にグリーンが広がっており、公園であることがわかります(王宮の跡)。<A>と書かれたところの西側の縦に白い矩形の固まりがバルセロナ・パビリオンです。<A>の示す位置は前広場です。
写真上部を見るとロータリー(スペイン広場)があり、大通りが放射状に広がって、南南東に一際大きな通りが下がってきていますね。この大通り両側に各国パビリオンが展開されたようです。この大通りの突き当たりがカタルーニャ美術館です。途中から西に90度曲がって(ここからは徒歩のみ)、奥まったところがバルセロナ・パビリオンです。
(Google images)
バルセロナ・パビリオンの西側には車が寄せられることがわかります。そこで車を降りて、30mほど歩くと言うのがメインのアプローチのようです。と言いますのは、観光客は前広場と言ったところからアプローチしますので、これがメインと思っていますが、このことを指摘するブログを読んだこと、ミース財団のhpでは西側立面の写真を掲げているからです。(でもスペイン国王夫妻は前広場からお帰りになったことが写真で残されていますが。
*1)
またも友人から海外の建築写真を提供され、これを見詰める中で、この建築に可能性を見た日本の建築家達に出会うことができた。
ここではひとまずバルセロナ・パビリオンの大きな写真を堪能してください。
スライド
(from the web)
基壇(H=1350?)があり石の固まりであることがわかる。コートハウス状に石壁で囲まれている。
玉石を敷き込んだ池、天井(屋根)が板状であり、それを支える鉄骨の細い鏡面仕上げの柱、鏡面仕上げのサッシ、東の透明ガラス、北のグリーンのガラス、西のスモークガラス、南の乳白色ガラス、グリーンの大理石壁、トラバーチンの壁と床、と言う「板」による構成だ。
見ていると柱と壁がだぶっているように見える。構造としてだぶっているのだ。というのは壁だけで支えられるか。いや逆だ。柱だけで支えられるだろう。そうした上で空間の構成に必要な壁をつけたと考えられる。自由にどこにでもつけられる壁として考えられた。それにしても柱が細い。
(現在、実際は壁も構造に使われている。当時、ミースの元設計では屋根は鉄骨造で柱だけで持たせる設計となっていた。*4 建築文化)
天井は真っ白でプレーンとなっている。(現在ではまず不可能)照明器具は床埋め込みとなる。(下の写真に見える)また出入り口の框戸を見ると天井に枠がない。機密性を問わない建築になっていることがわかる。
*4 建築文化
西側からのアプローチをみる。
オニックス壁 厚みは180くらいか?木端(こば)の石は無垢石。180×600×1500くらいが2段積み。貼り石は高さ1500幅約2100これを廻れる。天井との間にシールが打ってある、いらないのに。
右の柱が十字型柱であることが良くわかります。また正面のガラスが、グリーンなのが解るでしょうか。ガラスを通したところと、ガラスなしのところの暗緑色の大理石の濃度が違いますね。
この瑪瑙色の大理石の意味がよく解らないでいました。このhpの制作の過程で、この壁を背に国王夫妻の座が設定されているのだと気付いたのです。これに気付けば瑪瑙色の大理石がここだけに使われている意味が明解ですし、黒い絨毯が示す方向に、深い赤のカーテンが示す窓に、国王夫妻が手を振る市民が集っていることと言う、プランの構成がよく解るのでした。この写真のようなバルセロナチェアーの配置は何らかの誤解によると思うのでした。国王夫妻が風が吹き抜けて行く方向に座らねばならぬこと、逆光になること、中心性を欠いていること等がふさわしくいと思うのです。
正面のガラスが閉じていないのが解りますか。ガラス面が右側で大理石の壁とぶつかっていません。この室内はいつも外気と一体であることがわかります。
床石の目地が1090(*4 建築文化図面より)とするとオニックスの木端は170と写真測量計算ではでるが。
黒い絨毯と赤いカーテン。カーテンレールは直付け。この範囲でしか引けない。東側の大ガラス。1ユニット幅約4000高さ3000。(カーテンと重なっている。)
この天井高半分がオニックスの目地だから、ここが1500とすると、天井高さは3000と言うことになる。この600×170×1500が無垢の石、その横貼り石はは1500×2200くらいの大きなものだ。
このホリゾンタルライン(視線高さライン)からの、上下のロールシャッハテスト模様を眺めていると、迷宮に入れるか?
夜間に光り壁となる。と言いながら今も点いて少し光っているなー。トップライトからか。
オニックスの目地は結構でかい。計算では6mm。
ゲオルク・コルベ作≪朝≫ <底なし沼>に立ち「多種多様な光が充満する空間、まさにそんな消失の身ぶりを感じさせる」*3より
こちらの池は深いイメージを出すためか、外壁の大理石は池の中まで下げられず、池側面と底には黒ガラスが嵌め込まれている。
クロームメッキのスチール薄板で巻いた十字形柱。現在はステンレス板鏡面仕上げということです。十字形柱はサッシに溶け込んでいるか。
(ミース財団HPより)
ネットで写真を求めても、この西側からのアングルはこれしかないのです。なかなかこのアングルを撮ろうと思う人がいない。なぜなら誰もがこちらは裏だと思っているから。この暗緑色の大理石とトラバーチンの壁を従えて、スモークガラスの横に入って行くという感じがよい。本当はこれが正面のようです。スペイン国王夫妻はこちらから訪れ、広い池の前を通って、内部に入っていったことでしょう。内部に入る前に前庭に集まる市民に向かって、基壇の上から手を振って。
此処にはガラスッサシが室内から外部まで飛び出して(ワンサッシ分だが)建てられているのが見える。これは右側の大理石の壁同様に、ガラスが一つの固まりの「面」として扱われていることが解る。この手法を大きく使って成功したのは、ジャン・ヌーヴェルの1994年カルティエ現代美術財団(フランス・パリ)だった。ミースによってこういう使い方があることが1929という近代建築初期にすでに提案されている。初期とはこういうことで、あらゆる可能性がすでに試されてしまっていると言うことがあるのだ。このパビリオン自体が抽象の極点にすでにあるのだから。
ミースのガラス摩天楼の提案も、ミースの夢見たガラスの反射-非反射の違いに着目したり、分節された平面というのは実現されていない。
ベストアングル 水平に伸びる軒、奥に彫刻が見え、壁が突き出してくるのが良く感じられるアングルだ。
これらの写真を見てきて感じるのは、そして体験している人にとってもきっと一目瞭然だが(写真でも3Dムービーでも)、この建築の記憶に残る衝撃は、板壁が突き出している「木端(こば)」の勇姿であった。
1929年という=近代建築の新しい建築観によって、今までの石による鈍重な構造から解放されて、サッシと見まごう十字形の鉄骨柱によって支えられた水平な屋根スラブと、屋根荷重から自由になった板壁による空間の方向性を意味づけながら、天井までのサッシガラスの段階的な面構成による=とても開放的な流動する空間が実現した。
コルビジェ派がキュービックウォール(直方体壁)による造形を試みているのに対して、これを解体し、ミースはここではボードウォール(板状壁)による面構成の造形が試みられている、と言うところが特徴だ。
この板壁は作家自身によってフリースタンディングウォールとして意味づけられている。
アングルを4本組み合わせた十字形の柱を8本で屋根板を支え、その構造柱とは関係なく、自由に配置できる壁「フリースタンディングウォール」(ミース)と言う新しい作り方を見つけたということだった。
ミースにとってこの自由な壁というアイデアは、近代建築として造られ始めていた白い箱(キュービック・ウォール)というアイデアを超える物として考えられていた。これは建築を直方体であることさえ解体し、構造の壁という機能さえ脱出して、ただただ自由に、空間を分節する機能のみを与えようとした。しかもそれは内部にとどまることなく、外部へと飛び出して行く、内外を飛び越えて、内外の連続性をも称えたいために自立している壁(フリースタンディングウォール)と言うことだろう。
この建物から飛び出して行く壁というアイデアは、前作「煉瓦造田園住宅」から有り、田園に向かって、ボードウォールが延々と伸びている、と言うところに強烈な幻想として示されている。これはアイデアとして示された物だろうが、外部に向かって内部からの連続性を田園との一体感を謳うというのが大いに感じられる。
この柱で支える屋根スラブという概念は、コルビジェのドミノハウス(1914)と同じ構造概念となっている。コルはRC造の集合住宅を簡単に大量に提供するシステムとして発想された。そして自由なファサード、自由な平面を唱えた白い箱(キュービック・ウォール)を展開させた。
そしてミースは、これを鉄骨造に置き換え=柱を細くして目立たないものとし、フリースタンディングウォールと組み合わせ、田園に展開するものに発展させようとした。ただこれ以降ミースによって建てられたものは、トーゲンハット邸も、その他いくつかの住宅に実現されたフリースタンディングウォール(ボードウォール)は、田園に向かって伸びる物ではなく、自由なプランの「衝立」として、大変縮小されたものとしてしか実現されなかった。
だからこそ田園へと内外の一体感を求めた触手の「イメージ」として描かれた=このボードウォールが、次の世代にとっては大きな遺産となっている。これを現代建築となって展開した姿を見ていきたい。
今回バルセロナパビリオンの写真DATAを見詰める中で、「ボードウォール派」とその系譜、また「キュービックウォール派」という分類が必要なことを痛感した。それはキュービックウォールを超える物として示されたバルセロナ・パビリオンの忘れられたフリースタンディングウォールを、ミースのイメージした構成の壁とは何であったか、またそれを現代建築は何処まで越えてきたかを知ることができることになるはずだから。
キュービック派とは、白い箱=キュービックウォールによる幾何学形態の建築造形を目指したもの達をいい、サボワ邸、シトローエン住宅、ラロッシュ邸、バウハウスと枚挙にいとまない。日本でこれを継承したのが、土浦亀城、山口文象などインターナショナルスタイルと言われた。現代建築ではリチャード・マイヤー。この先人が、ブルーノ・タウトの集合住宅群と言うことになる。
ボード派とは、バルセロナ・パビリオンに見るボードウォール(板壁)の構成を持って建築造形しようとしたもの達のことでした。ミースはバルセロナ・パビリオンでランダムで同方向の非構造壁をフリースタンディングウォールと命名して(*2)、これ4枚とガラスカーテンウォールによって室内を構成して見せた。ところがこのフリースタンディングウォール(ボードウォール)による手法は此処でしか使われなかった。いくつかの住宅で内部に限定的に衝立のように使われているが、外壁全体に使われることはなかった。何故かミースはガラスの箱に収斂していった。
ミース自身は顧みなくなってしまったのだが、日本の建築家達によって、新たな展開が目指されていた。それをボードウォール派と呼ぼう。
私の狭い知見では戦前の谷口吉郎の住宅、戦後の清家清の自邸、池原義郎の
酒田美術館(外部への触手という意味では最もこだわって見せた)、掬水亭(高層建築への軽さの展開)、谷口吉生の法隆寺宝物館等々に結晶している。
そうこの手法は最終的には高層建築にさえ採用され、小端(こば)壁を立てることにより、ガラスの手法とは違った、建物の大きなボリュームを感じさせない、軽快な感覚を見る者に与える手法となっていった。
2o11o818 mirutake
*3『ミース・ファン・デル・ローエの戦場』より
夜間に光り壁となる。
(from the web)
バルセロナ・パヴィリオン平面図 (寸法は概略です。)
(from the web)
屋根スラブの厚みや構造はどうなっているのだろう。やっぱり梁はあるだろう。雨水は垂れ流しなのか?また屋根にはトップライトがあるようだ。
このあと建築文化のミース特集でミースによる図面をみることができた。当初は屋根も鉄骨造で、軒先を細く見せるのに苦労していました。現在はコンクリートになったとのことです。遠景からの眺望にもフラットな板に見えるようにと言うことでしょう。雨水は壁の厚みの中に樋を仕込んでいます。すでに書いているように、トップライトです。
*2より
1923 ミース 「煉瓦造田園住宅」 平面図 室内から田園に伸びるフリースタンディングウォール。
*1『ミース・ファン・デル・ローエ』より
(from the web)
*4 建築文化
*4 建築文化
1929年バルセロナ・パビリオン建設現場
(from the web)
見所をちょっと解説=下図のパースを見てください。メインホールに焦点すると、ポイントは暗緑色大理石貼り「板状壁」が同方向に3枚と、中列にオニックス=紅縞瑪瑙(べにしまめのう)の「板状壁」が1枚、ガラスカーテンウォールが縦横で4面ホールを囲み、それに屋根を支える柱(十字形のクローム仕上げ)6本(実際は8本)と言う構成です。ここを回遊できる。パース左側、3面の不透明ガラスと一面の石壁に囲まれたゾーンには照明が仕込まれていて夜間に光の壁となる。また良く見えないが、アクリル板がオニックス壁を回って北側池に抜けようとセットされている。室を回遊する廻り方を示しているようだ。
SANAA バルセロナ・パヴィリオンインスタレーション 内観パースより
オニックスとその対向位置の十字柱にアクリル板が楕円状にかつ螺旋状に巻きつているのが見えますか?良く見えないのでトーンを落として見えるようにしてみました。それでも良く見えないけど。4枚の石の壁が東西方向を閉鎖し、南北方向に大きく解放されていると見せながら、実は北側にも緑の大理石壁がコートハウスのように小さい池を囲っている。(SANAAのパースではこの北側の壁が省略されている。)
この図を利用して空間構成を説明してみます。
左上が西側で、メインのアプローチです。その西側のガラスはスモークになっています。メインアプローチからの視線を少し遮っている感じです。反対側の東面は大きなサッシ割りになっていて、透明ガラスです。こちらの前広場に集まった市民に内部から国王夫妻が手を振ったのではないかと思われます。
右上側が北になります。この面はパースでは省略されていますが、緑の大理石でコートハウスのように小さな池を囲んで閉じられています。この北側のガラスはグリーに着色されています。グリーンの大理石に囲まれているのに。写真では濃度の判断ができませんが、池が黒ガラスを貼り付けて深く見せようとしていることと関係して、ここにグリーンの小宇宙を作ろうとしているように感じます。ここのガラススクリーン両脇は、大理石壁に当たっておらず、サッシなしの開口になっており、室内のような空間は、実は外部と一体です。このドイツパビリオンに着せられた機能が、スペイン国王夫妻のゴールデンブックへの署名式だけだったことが、外気の場所でよかったし、ミースの目指す抽象空間だけで実現できた大きな理由でもありましょう。
南側は乳白の大ガラスで光の箱と呼ばれています。これによって広い池が内部から見えないようになっており、ガラスなのに見えない壁と言うことに意味があるようです。夜間には光の箱となり、ここが中心となるのですが。
ガラス面が大きく、面の構成として配置され、大理石壁が面構成として扱われるのと同じ扱いになっています。西面では光の箱を覆ってからもっとのびて、覆うものと言うより、面を構成するものとガラスが扱われているのを感じることができる。東側ガラスも、入り口側ワンブロックは大理石壁と重なっており、面扱いを感じさせる。カーテンと重なっているワンブロックのガラス面から1200くらいカーテンがかぶっており、国王夫妻が市民に手を振るときにはすべてカーテンが開かれたと考えられる。
流動する空間とは石壁とガラスとカーテンと開口とにより、多段階の流動が構成されている。
フランク・ロイド・ライト 1867-1959(92)
1906年 ロビー邸(from the web)
近代建築の最初の巨匠建築家。そしてこれがミースの絶賛した住宅です。影響はあまりに明らか。
ライトは1910年頃に不倫スキャンダルでアメリカをのがれ、新しいパートナーとヨーロッパを旅行、講演もしている。また作品集の出版もして、ヨーロッパに近代の新しい住宅像を(上図)プレイリー住宅として提唱した。
コルビュジエ 1887-1965 (78)
1929-31(44) サヴォア邸
キュービック・ウォールの代表
1914年 コルビジェのドミノシステム *鉄筋コンクリートによる住宅建設方法である「ドミノシステム」を発表(ウィキペディア)
当時コルはRC集合住宅建設のための自由な壁の構造システムとして考えていた。
この15年後にミースはバルセロナで同じ構造システムを考えているのだが、その違いは、RC造かS造かと言うところに違いがあっただけではなかった。それはこの見えないくらい細くなった十字柱と言うことと、自由になった壁をどう着けるかと言うところに、二人の決定的な違いがあった。コルはあくまでキュウビックな外壁を着けることを生涯守ったが、ミースはここでは大理石の板壁で方向を示しながら、ガラスの面構成に序列をつけながら配置し、流動する空間を創っている。ミースはここで決定的にコルのキュービック空間を追い越し、新しい空間を提示したと感じていたはずだ。
けれどこの後ミースはアメリカに渡り、外壁は着けないガラスの箱に走ってしまった。そうフリースタンディングウォールの田園へと伸びるボードウォールは、バルセロナ・パビリオンのみで実施され、その後いくつかの写真コラージュに試みられるが、顧みられることはなかった。
だからこそ、日本の建築家達が、バスセロ・ナパビリオン以降のボードウォールの展開を生きることになった。
清家 清 1918 - 2005(87)
1951 森博士の家 東京*5 新建築
谷口 吉郎 1904-1979 (75)
1937 k氏の住宅 *5 新建築
1955 集団週末住居 長野県軽井沢町<谷口吉郎の世界より>建築文化9月号別冊1997
バルセロナ・パヴィリオンの面構成だと思う。水平な軒天井、垂直に立つ小境壁(ボードウォール)。ここからゲートウオールに展開してゆく。
谷口吉生のゲートボードウォールの出生である、谷口吉郎の住宅(写真がまだ見つかりません)
谷口吉生 1937-
1991年 丸亀市猪熊弦一郎現代美術館・丸亀市立図書館(photo by goto)
建物の正面だけ小端(こば)立て壁にして、直方体にせずダイナミックな奥行きを演出しています。左手は階段を設けることで上昇する奥行きを設定し、右手は袖壁に建てスリットを空け抜け感を造っています。天板はまだ厚いままですね。鑑賞者はこのときには面白いやり方を考えついたもんだと、画家のキャンバスをゲートに掲げることによるゲート庇と考えていました。
ボードウォールという手法の出生と継続的な展開と言うことを、掬水亭(池原義郎)を見るまでは気づけなかったのでした。
1996 つくばカピオ
天板も板です。これだけの深さですと構造的にもどうやっているんでしょう。ゲート薄板内は完全に外部となっていますね。
1999 東京国立博物館法隆寺宝物館
建物のボリュームにゲートのように大きく、そして薄く、ボードウォールをかざす手法が此処まできたかという展開を見せています。それはゲート薄板間隔を大きくとりながら、ガラスのエントランスホールを挟み込んでいます。ガラスと薄板の軽快さの二重性です。おまけにゲート薄板天板は大きく切り抜かれています。スカスカにいろんなところが抜けていることによって、軽快さがあふれていますね。もう一つ、特に左手は喫茶の外部テラスになっているところが見通せるように建物本体を引っ込めている、すなわちボードウォールが勝っているのでした。
そして上記3つの作品を比べると、ボードウォールの薄く軽く抜ける、と言う展開がよくわかりますね。
2007 京都国立博物館南門ミュージアムショップ (photo by Igarashi Taro) (from the web10+1)
10年前に三十三間堂を見た帰りに、出会って、これはバルセロナ・パヴィリオンだと直ぐ気付きました。工事中だったの?屋根の薄さとか、ボードウォールの厚さ、壁を天井と大きく離しているとか、違いは結構あるけれど、バルセロナパビリオンに近い構成となっている。
池原 義郎 1928 -
1973年 所沢聖地霊園 (埼玉県所沢市) (photo by aibo2)
ボードウォールの組み合わせを此処では重く構成している。霊園というシュチュエーションと言うことかしら。
1997年 酒田市美術館 (山形県酒田市)(photo by aibo2)
バルセロナパビリオンを超え「煉瓦造田園住宅」の敷地いっぱいに張り出すボードウォールを彷彿とさせるものだ。
1985年 掬水亭(埼玉県所沢市)
今回この「掬水亭」の写真をみて、バルセロナ・パヴィリオンからの系譜を直感しました。そしてこの建築の影響の大きさに改めて考えさせられたところです。遅いですが。ガラスカーテンウォール以外に、建物を軽快に見せる手法がこのボードウォールでした。
かつて建築雑誌に発表された時には、高層ビルに三角形の屋根が乗っていることに感動しました。これは見に行かねばと思っている内に、2001年けんちく激写資料室で所沢霊園を取り上げ、またまた西武遊園地を取材に行かねばと思ったのですが、今回になってしまいました。早く見に行けばよかった。
妹島 和世 1956 -
1998 古河総合公園飲食施設 茨城県古河市
バルセロナ・パビリオンからボードウォールを最小限に減らし、鉄骨柱を最小径にしたらこうなるという試みだ。
2005 SANAA 海の駅なおしま 香川県直島町(photo by aibo2)
古河の形式のまま規模を拡大して作られた。耐力壁のステンレス板が見ますね。
石上純也 (1974-)
神奈川工科大学KAIT工房(photo by aibo2)
上記の耐力壁を完全に無くし、柱だけで構造を完結させた。しかもフラットバー柱の方向を変えながら耐力を持たせる構造となった。ミースのバルセロナ・パビリオンの柱だけで屋根板を支えるという究極の姿。
日建設計
2010 ホキ美術館
これは違うかな?と思うも、これこもボードウォールの展開。
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私は長らくコルのキュービック・ウォール派でした。
ヨーロッパからの近代建築がキュービックな壁による造形をもたらしたが、そのキュービックな壁面により面白い形を作って行く方法は解りやすかった。これぞ新しい建築と思っていた。
ブルーノ・タウトの、ジードルングでも今までの煉瓦とか、石積みではできない、出隅コーナーに開口を空ける手法が見られ、自分たちのやっている現代建築と緊密に繋がっているのを感じることができた。永らく現代建築とはキュービック・ウォールのことだと思っていたのでした。
ミースに属するボードウォール派の造形に面白いと気が付いたのは、谷口吉生の丸亀市猪熊弦一郎現代美術館1991からだから、よほど遅れていた。これも造形として面白い板壁となったから、私にも初めて解ることができたのだ。これ以前にも、清家清自邸とかよく知っていたが、その建具建築は受け入れることができなかった。勿論その系譜としても気づくことができなかった。
今回やっと西武遊園地を見学できて、掬水亭を見ることができた。その三角の屋根は、建築雑誌に発表された当時、衝撃であった。そのとき見学に行ってたら、今回の発見はあっただろうか?今回の見学での発見はボードウォールの発見だった。この壁はバルセロナパビリオンに繋がっている。そう直感したのだ。あとは谷口吉生のゲートウォールも此処だし、谷口吉郎の住宅や集団別荘も当然つながってるし、そうなると清家清の自邸も繋がっていたのかと気づくしかなかった。そしてボードウォールとは、面構成派とは、日本の柱と建具の構成のことだったのだ。そうなるならミースのフリースタンディングウォールとは、日本の建築から得た発想だったのではないかと疑いたくなる。ヨーロッパには無いものだからだ。だからミースの手に余ったのではないかと。
それから意外な発見だったのは妹島和世の「古河飲食施設」と「海の駅なおしま」ですね。他にないか写真を漁っていたら、これそうじゃないのと気づくしかなかったですね。本当に驚いたけど、バルセロナ・パビリオンからフリースタンディングウォールを取ってしまえばこれになるしかない。屋根と柱の超抽象化の痩せ細りが建築になるなんて、日本の建築の本質のところのことじゃないかとさえ思える。だからこれ以降の展開も若い建築家達に引き継がれていますから、こんなにも日本の建築家に繋がっているのなら、本家帰りと考えるしかないのじゃないかと思えるのでした。
バルセロナ・パビリオンは建築界の言説では、基壇があったり、石を使っているのが古典的だと言われたり(古典的な石の使い方ではないのだが)、また反対に近代建築自体が写真や動画映像や書籍によって振りまかれたのだが、此処ではもっと超えられて、3Dによるバーチャル空間に数多く再現され、抽象性が倍増されて、幻想性まで想像力を伸ばし、迷宮とさえ言われているのだ。想像力を拡大展開して行けば、個人の内面では何処までも現実を離れて加工していくことが可能だから、終わりのない幻想は拡大し続けるしかない。だからこそ此処では解釈ではなく、建築家達の想像力によって生み出された建築作品をたどれるところで、バルセロナ・パビリオンのその後の可能性を示してみた。
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関連 hp
ミース・ファン・デル・ローエ ウィキペディア
MIES ARCH (ミース財団)
西側からのアプローチ
Barcelona German Pavilionについて質問です
Barcelona Pavilion Move
barcelona pavillion Move
Barcelona Pavillon - Mies van der Rohe 1929 Move
地中海ブログ
地中海ブログ
建築再読-F.11 バルセロナ・パビリオン -1
book紹介
*1 『 ミース・ファン・デル・ローエ (SD選書)』 デイヴィッド・スペース
平野哲行訳、<SD選書>鹿島出版会、初版1988年
*2 『ミース・ファン・デル・ローエの建築言語』
渡辺明次、工学図書、2003年−著者はミース事務所勤務
*3 『ミース・ファン・デル・ローエの戦場 その時代と建築をめぐって』
田中純、彰国社、2000年
*4 建築文化 『ミース・ファン・デル・ローエ Vol.1』
1998.1 彰国社
*5 新建築 『現代建築の軌跡 1925-1995』
1995.12 新建築社
カメラ紹介
Canon IXY DIGITAL 25 IS 発売日:2008年 4月 3日
約1000 万画素 1 / 2.3 型CCD 6×5mm
6.2 (W) - 18.6 (T) mm
(35mm フィルム換算 35 (W) - 105 (T) mm)
F2.8 (W) - F4.9 (T)
*コンデジでもディストーション(直線が曲線)を修正、画面の傾き、垂直線のパースペクティブ、トーンを出す。これで建築写真になる。解像度は高いので切り取りもできる。コントラスが低くなるので、雨降りであることが幸いした。質感が良くでている。建築写真は雨の日に。また画面比が3×4なので2×3に直した。建築写真は横に広がる感じが重要なので。
訂正 天井高さが3000との資料が見つかり,3200から修正しました。(110910)
写真追加文章追加修正(110925)
写真入替文章追加修正(111022)
文章解り安く追加修正 (111223)