やさしく けんちく探訪
体験外記 バルセロナ・パヴィリオン 1929(43)
ミース・ファン・デル・ローエ 1886-1969(83)
photo by kajimoto 2010.10
広い池の底には大きめの砂利が敷き込まれている。その池に写り込み、大きく張り出した軒天井。その白い板が内部まで水平に入り込む。トラバーチン(ス入りの大理石)の床、良く見えないが鏡面の細い柱、そして同じ方向を向いた暗緑色の大理石の板壁が配置(構成)されている。
この建物の特徴は、外から内部まで水平に伸びる軒天井です。
白い天井が、すっきりと内部まで一体の一枚板で入り込んでいます。天井はプレーンで、照明など一切取り付けられていません。色が白いこと、単一の面と扱われていることで、幾何学図形の板のように感じられるはずです。この現実感のない素材感を消した図形のようであることを、抽象化された建築と言います。近代建築としては、装飾の「ない」と言う意味でも抽象建築と言われます。
(この軒天井だけの建築とは、日本の屋根だけの建築の抽象です。)
この軒天井板は、8本のスチール十字形柱で支えられています。
柱を十字形とすることで細く見せ、また鏡面の仕上げとすることによって自己を消し、目立たない物としている。おまけに十字である見掛けを細くすることで鏡面のサッシのようにも見せて、存在感を消そうとしてるのです。これ以前の建物ですと、柱は力強く太く存在感を主張して見せるというのが常道ですが、全く反対のことが狙われているのでした。
次の着目は大理石の壁です。
軒天井板は柱で支えられましたから、壁は構造から解放され、自由になったと言うことです。すると壁は室内空間をどう作るか?と言うことで配置(構成)されることになります。これをミースはフリースタンディングウォールと呼びました。
ここでは構造の柱とは全て「ずらした」位置に壁やガラスが自由に配置されています。
SANAA バルセロナ・パヴィリオンインスタレーション 内観パースより
全体の構成が解りやすい平面図パースを見ましょう。
暗緑色の大理石壁は3枚、内部西寄りに瑪瑙(めのう)色の大理石(オニックス)が、南北方向に向きをそろえて配置されています。これは南北方向に大きく解放されていることが解ります。玄関は西側のようで、瑪瑙色の大理石壁側から入ってきます。そしてこの瑪瑙色壁をバックに、スペイン国王夫妻の座となっていると思うのです。そう考えるとこの瑠璃色壁が生きてきますし、そこに立つ国王夫妻の視線は、東に集まる市民に向けられようになっています。(下写真の家具配置とは違う考え方です。)
次の着目はガラススクリーンです。
東側が透明の大ガラスになっていて、ここから外部の市民に向かってスペイン国王夫妻が手を振った。こちら外部側のみ床が1400くらい下がって前広場に接続しており、多くの市民が国王夫妻を待ちかまえていたことでしょう。
西側は玄関側ですので小割の「スモーク」ガラスとなって、視界をいくらか暗くしています。この面のガラスがワングリット南に飛び出しており、これはガラス面を包む方法ではなく、スクリーンという面のマトマリとして、大きく扱おうとしていることが解ります。
南側は大ガラスが2重になっていて、乳白色ガラスの光の箱と言われています。このガラスの箱にはトップライトがついていて、昼間でもいくらか明るくなっていますが、視界は完全に遮られ、こちら側の広い池も見えません。室内の落ち着きを狙っているということでしょうか。
北側は小割のガラスで薄い緑の着色ガラスになっています。上図パースでは省略されていますが、小さい池を囲んで、コートハウスのように視界は完全に壁で閉じられています。そして空間の流動性はここで上昇へと向かうと言うことでしょう。そしてこの小池の側面と底面には黒ガラスが貼りつめられ、上昇感とは逆の深い池を演出しています。
といろいろなガラスの方法が、いくつも試されていると言うことだと思います。
ここでは石壁もガラススクリーンも天井いっぱいに嵌め込まれ、それぞれ1枚の板のように扱われ(構成)ています。意外にも天井までの一枚ガラスというのはつい最近までなかった手法なのです。
瑪瑙色の大理石から、黒の絨毯が東のサッシまで敷き込まれています。そこには深い赤色のカーテンがワンサッシ分+1200mmかかっている。国王夫妻はこのカーテンを開けて、市民に手を振ったのではないか。大ガラスの向こうには多くの市民が集っていた。
ベストアングル 水平に伸びる軒天井、奥に彫刻が見え、フリースタンディングウォールが突き出してくるのが良く感じられるアングルだ。
雨降りであることが幸いした。石の材質感が良くでている、軒下が真っ暗にならずに良く見えている、青空は写らないが、建築写真は雨の日も大変良い。
*2より
1923 ミース 「煉瓦造田園住宅」 平面図 室内から田園に伸びるフリースタンディングウォール
いままで各部分を見てきましたが、この建物は全ての部分が板だけの構成になっていると言うこと。
一枚板の軒天井屋根、大理石の板壁、板構成のガラスサッシ、床、池,,そして消える柱=線という構成でした。
全ての建築部品が板だけの幾何学図形構成と言うところまで、最高度に抽象化されている希有な建築。
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近代建築からの展開
産業革命によって社会の仕組みが工業化社会へと変わる中で、時代に答える建築が模索されていました。構造的にはコンクリートや鉄骨構造が技術者によって作られていましたが、様式建築を超えるデザインの方法としては模索段階だったのです。様式建築の装飾に変わって、植物模様に新たなスタイルを求めた近代黎明期があった。
そして近代初期1920年頃ころ、抽象絵画の展開に呼応して現代に通じる抽象建築が、いろんなスタイルが生み出されてきたのです。絵画になりたかった建築の展開です。
近代建築=抽象建築の動きをコルビジェとミースの建築方法で位置づけてみます。
1.コンクリート構造の白い直方体建築 またその組み合わせの白い幾何学立方体。(
サボワ邸 1931 Le Corbusier)
2.その展開で外壁を白くするのを止めて、打ち放しコンクリートとか、石を細かくして貼り付けるなど、幾何学立方体の組み合わせたグレー建築。(
ラ・トゥーレット修道院 1960 Le Corbusier)
3.上記の打ち放しコンクリートに曲面を導入したもの。(
ロンシャン礼拝堂 1955 Le Corbusier)
4.ミースがアメリカに渡ってから追求した鉄骨構造直方体の外壁をガラスカーテンウォールとしたもの。これが現在最も普及している建築の方法と言うことになります。
5.そして今回取り上げたミースのバルセロナパビリオンの、板壁による構成建築で、最も抽象度の高い建築手法が生まれました。そしてこの方法が現在にも使われる手法として、低層建物から高層ビルに生かされているのでした。
ここで解るのは1から4は立体の固まりの造形ですが、5は板の構成というところが大きく違っています。それはヨーロッパの建築観と、日本の面や線の構成の建築観との違いと見えます。
(from the web)
暗緑色の大理石、赤いカーテン、室内の黒、トラバーチンの基壇。それらの壁面が前広場に正対して、面としてのボリューム(正面性)をシンプルな構成で見せています。これでデザイン完了とはなかなか言えない、単純すぎるほどですね。抽象性が高い。
この建物はバルセロナ万博1929年の時の「ドイツ館」を指しています。建築界ではあまりに有名なので、バルセロナのパビリオンと言うだけで、ミースのこれを指すようになっています。
この建物はドイツのパビリオンながら、工業製品などの展示には使われず、スペイン国王夫妻を招いて調印式だけを行う目的で建てられました。建物の用途としては大変シンプルな要求ですから、ミースの考える建築イメージだけで実現されていると言ってよい、「抽象性」の高い建築になれたのでした。
ミース・ファンデル・ローエは、近代建築を引っ張った建築家の一人で、この時すでに43歳、ガラスの摩天楼計画案、ヴォイセンホーフ・ジードルンク等で、知られていた。この後ナチに追われてアメリカに渡り、ガラスカーテンウォールの摩天楼に終始して行く。
ル・コルビュジエ 1887-1965 (78)
1929-31(44)
サヴォア邸 キュービック・ウォールの代表
近代建築のもう一人の巨匠、ル・コルビュジエのここでの建築の作り方は、キュービックで白い固まりを、ピロティによって持ち上げることで浮遊感=抽象性を獲得しています。そして室内空間はキュービックな固まりに、どのような開口をうがつかという風にデザインされています。すなわちキュービックな固まりが守られていると言うことが特徴なのです。これが西欧の室内空間意識だからです。
これに対しミースのバルセロナ・パヴィリオンインは平屋ではありますが、細い柱で支えた軒天井屋根のもとに、「板状壁」を同じ方向に並べ、内外を大きく風が吹き抜けるような、流動性の大変高い空間を作っているということです。
こういう屋根だけの建築というのは日本の建築空間に他ならないですね。ミースにライトの建築(下図)や、ライトの参照した日本の空間作りが伝わり、それがバルセロナ・パヴィリオンに結晶したと言うことだと思うのです。
フランク・ロイド・ライト 1867-1959(92)
1906年 ロビー邸(from the web)
近代建築の最初の巨匠建築家。そしてこれがミースの絶賛した住宅です。影響はあまりに明らか。
ライトは1910年頃に不倫スキャンダルでアメリカをのがれ、新しいパートナーとヨーロッパを旅行、講演もしている。また作品集の出版もして、ヨーロッパに近代の新しい住宅像を(上図)プレイリー住宅として提唱した。レンガ造りの重厚住宅が何で近代なのだと思うだろうが、キャンチの深い軒にそれが見えるし、ミースの「煉瓦造田園住宅」平面図にその影響を見るように、それまでの個室プランから、流れるような空間の連続性をつくっているところが、強烈な新しさとして、ヨーロッパに受け入れられた。
(from the web)
1690島崎家 1618如庵 織田有楽斎 日本の壁は「自由な」存在だった−1 下山眞司
日本建築の壁が突き出した例としてあげました。そして日本建築の壁は構造には使われていなかった、という考え方の紹介です。
バルセロナ・パヴィリオンは今日も日本の現代建築家達に、影響を与え続けているのでした。
谷口 吉郎 1904-1979 (75)
1937 k氏の住宅 *5 新建築
バルセロナ・パヴィリオンより8年後の建築です。このころ日本では寝殿造りをコンクリートに置き換えたスタイルを、世界性にしようと建築家達が競っていました。谷口はそれに板状壁を着け加えているのでした。
谷口吉生 1937-
1991年 丸亀市猪熊弦一郎現代美術館・丸亀市立図書館(photo by goto)
建物の正面だけ小端(こば)立て壁にして、直方体にせずダイナミックな奥行きを演出しています。左手は階段を設けることで上昇する奥行きを設定し、右手は袖壁に建てスリットを空け抜け感を造っています。天板はまだ厚いままですね。鑑賞者はこのときには面白いやり方を考えついたもんだと、画家のキャンバスをゲートに掲げることによるゲート庇と考えていました。
1996 つくばカピオ
天板も板です。これだけの深さですと構造的にもどうやっているんでしょう。ゲート薄板内は完全に外部となっていますね。
1999 東京国立博物館法隆寺宝物館
建物のボリュームにゲートのように大きく、そして薄く、ボードウォールをかざす手法が此処まできたかという展開を見せています。それはゲート薄板間隔を大きくとりながら、ガラスのエントランスホールを挟み込んでいます。ガラスと薄板の軽快さの二重性です。おまけにゲート薄板天板は大きく切り抜かれています。スカスカにいろんなところが抜けていることによって、軽快さがあふれていますね。もう一つ、特に左手は喫茶の外部テラスになっているところが見通せるように建物本体を引っ込めている、すなわちボードウォールが勝っているのでした。
上記3つの作品を比べると、ボードウォールの薄く軽く抜ける、と言う展開がよくわかりますね。
2007 京都国立博物館南門ミュージアムショップ(from the web10+1)
(photo by Igarashi Taro)
10年前に三十三間堂を見た帰りに、出会って、これはバルセロナ・パヴィリオンだと直ぐ気付きました。工事中だったの?屋根の薄さとか、ボードウォールの厚さ、壁を天井と大きく離しているとか、違いは結構あるけれど、バルセロナパビリオンに近い構成となっている。
妹島 和世 1956 -
1998 古河総合公園飲食施設 茨城県古河市
バルセロナ・パビリオンからボードウォールを最小限に減らし、鉄骨柱を最小径にしたらこうなるという試みだ。
石上純也 (1974-)
神奈川工科大学KAIT工房(photo by aibo2)
上記の耐力壁を完全に無くし、柱だけで構造を完結させた。しかもフラットバー柱の方向を変えながら耐力を持たせる構造となった。ミースのバルセロナ・パビリオンの柱だけで屋根板を支えるという究極の姿。