日本民家園 旧広瀬家住宅 1700頃
         
                photo by mirutake  2010.10

生田緑地の一角を占めて、多くの古民家を集めている川崎 日本民家園に行ってきました。
単純な構成の農家を中心に見てきました。
旧広瀬家住宅には感動しました。茅葺きの大変低い軒、大人だと目の高さという低さなのだ。この低さは楽しい。こんな住宅をやってみたいという想いももっていたものだから。旧所在地は山梨県甲州市塩山上萩原という山村にあった。甲州盆地の民家は切妻造りが一般的なんだとのこと。


単純な板の形




あまりの軒の低さにみんなが触ってしまう。かわいらしさ。




中は暗い。入り口を入ると土間、直ぐ柱が立つ。


内部は大変閉鎖的、故に暗い。
土間に見る梁袈構も大変低い位置にある。
おまけに一番の驚きは、通常板の間だと思っていた広間が、ここではゴザ敷きの土座になっているのだ。土間にいくらかの藁(わら)を敷き詰めて、その上にゴザを敷き込んでいる。土間との間には100(ミリ)角くらいの角材で領域を仕切っている。残念ながら今回はあがれない日なので、土座に座ってみることはできなかった。ゴザ床が低いので、上部の梁袈構も低いのだと思えた。ここがこの家の特徴であるが、この空間に佇んでいるとなにか竪穴住居への連想が浮かんできてしまう。この広瀬家とはあまりに長い時間的な隔たりがあるだろうが=木造住居ゆえに遺構が断絶しているから なかなか繋がらないが、竪穴住所も最後はこの土座であったのだろうと考えてしまう。いや低い床板を張ったかもしれないとか。




梁の位置が大変低い。土間に続いて ござを敷いた土座の床になっている。



実際の内部の暗さはこんな感じでしょうか。(小屋梁面暗さ調整前の画像)

土壁には土を塗り残すことで小さな開口を作っている。壁下地の竹木舞が見えている窓と言うことになる。穴が開いた開口のままでは冬は寒すぎると思うが。何かで塞いだのでしょう。今度担当者がいたら聞いてみましょう。良く見るでもなくすぐ解るのは、土台(壁土の終わりを見切る土台とは言えない小部材。)下の礎石(土台石)との間が隙間だらけだ。板の間の上がった床下が丸見えのままだ。同じように柱と土壁との間も隙間だらけとなっている。凄い隙間だらけの家だ。囲炉裏を常に炊いている以上、換気としてこれだけの隙間が必要と言うことだろうか。


屋根勾配なりにあるのが又首、頂点を支える束柱、縦横に小屋梁が走る。実は真っ暗、ここはストロボを使ってしまった。


土間と土座の境は角材がある。転用部材を示すほぞ穴が見える。
壁土を止める部材と礎石との間は隙間だらけ。この部材(地覆)なしに土壁を下げたら竪穴住居だ。
ここにいると壁が土だというのは、竪穴住居の地盤を掘った側面の土を意味しているように感じられて仕方ない。


入り口直ぐ右が馬屋、その上も竹簀の子天井になっていて、馬の餌などを保存していた。


土間と土座、低い小屋梁、地窓、小屋裏に上がる階段。


縦横に組まれた梁は小屋面を固めている。そこに真束や小屋束が立ち上がり、それを小屋貫が固めている。

ここは味噌樽や漬物樽置き場。





柱と梁の接続は、ほぞ差し鼻栓で、それを各方向段違いにすることで鼻栓打ちができるようにしている。単純にして確実だ。


入り口部分軒下を見る。上屋(主構造)から持ち出し接続の下屋部分になる。


ざしき(板の間にござ敷き)奥に なかなんど。






この民家園で見た農家が、垂木と軒桁の隙間、面戸板に当たるものが無くって、隙間のままになっている。
(この旧広瀬家では農家としては大変珍しい切妻屋根になっていて、この妻面も母屋と桁との間が透いているだろうなと思っていたら、土壁を盛り上げて、一生懸命塞いでいるのでした。)


入り口側の軒が大きく下がった形は、太古の神社建築を思わせる。竪穴住居の年代から言えば高倉倉庫が切妻で似ている。礎石建ちになる前の在り方は、上屋はこのままに、土座住まいで掘っ立て柱にした程度の違いだったのではないかと想像をかきたてる。


屋根には草なのか苔なのか緑が結構見える。棟には何か植物を植えているかも知れない。



旧広瀬家住宅平面図   ドジ=土間 イドコ=広間
(寸法数字はおおよそのものです)

幾つかの古民家の断面図を並べて眺めることを思いつきました。合掌造りはやっぱり大きい。
屋根型の三角形部分の2斜辺を又首(さす)と呼びます。小屋組が又首(さす)構造になっているのは竪穴住居以外同じなのですが、合掌造りは大型のサス構造と言うことですね。


人型を入れましたので伊藤家との軒高さの違いを味わってください。
広瀬家は又首(さす)材だけで三角の構造になっているのではなく、頂点を支える一番高い柱=真束が構造として効いていますね。この方が古形なのかなと思いますが?逆なのかな。外観切妻を含めて真柱があるのは神社建築を連想させる。

今回古民家の構造という意識で見ていると、小屋裏(屋根型)の三角形部分に、下から入ってきた柱が 何段にも渡る梁面によって固められているのが解った。広瀬家では2面、伊藤家では3面と貫面1面という風になっている。
現代の民家では和小屋と言って、小屋梁面で全ての柱は止まっていて、小屋裏まで柱伸ばして固めるという発想はない。ここも壁筋交いに頼ってゆくことになると言うことか。固める小屋面の高さでは広瀬家の方が幾らか高い。

<都合四本の柱が四角い枠を形作って、この家の内部の構造の主体となっている。このような造りを「四つ建」とか「四つ造り」と読んでいる。この四角い枠から四周に梁を出して側を作るのが古い建て方と言われ、甲州盆地の近世民家のなかで古い段階に属するものの特色と言える。>と『日本民家園物語』にある。これもまた竪穴住居の四角い枠を柱梁で造り、屋根型として垂木材を立てかけてゆく造り方のことに思える。


民家園の旧伊藤家住宅の報告に、移転した後地の発掘で掘っ立て柱後が見つかり、そこに今までの住宅と同じ規模の物が立っていたと想定できると書かれていました。旧広瀬家住宅にも同じ想像をしました。それがもっと遡った竪穴住居に繋がってしまった。(竪穴住居復元断面図は横浜遺跡公園の看板から。)


最近古民家についての新たな知見を得る機会があった。
今まで私達は古民家というと、郷愁の対象であったり、懐かしいデザインとして鑑賞の対象であったり、現在からは断絶してしまった古建築構造としてみてきた。これを現在に生きている建築構造として見直していこうという考え方に出会ったのでした。それはネットを検索していて全くの偶然で出会ったのですが、強烈なものとして出現したのでした。

まずは壁筋交いにたよる耐震構造というのは違うのではないかと。
それは木造に限らず、軸組構造体の連続した中に、その部分だけ強固な壁を作ることによって建物が地震に耐えるという発想そのものが。全体の中に一部分堅い壁部分を作ることは、そこから壊れることにしかならないと。

日本の古建築は、筋交いという発想を知りながら(もの凄く限られたところには使われているから)、それを使わない貫構造や、袈構全体の立体構成(袈構)による粘り強さによるバランスで耐える構造なのだと。

その証明は幾つもの大地震に耐えて、古いものは500年もの間耐えてきたのであり、今も残っている古民家がこれを語っていると。だから科学と言って計算や実験によってそれを証明できなければ、科学的でないという発想こそが科学的でないと。実際に耐えて生き残ってきた古民家に敬意をもって、尽きせぬ知の源泉と見なければならぬはずだと。何百年と古民家は、大工棟梁達は地震と格闘してきたし、そこになんの手だても見つけられなかったと言うことはあり得ないことだと。却って近世民家のスタイル(まとまった様式)というものが見られるのだから、そこに安定した回答を見つけてきており、それが全国に展開されていると見るべきものなのだと。

ゆえに古民家に現在の壁筋かい耐震構造の考え方で補強をしようなどとはもっての他であるし、却って壊してしまうことになっているよと。

石場立てという古民家の考え方があります。
柱を礎石の上に立てて、乗せているだけなのです。アンカーボルトのような地球に建物を固定することはしないのです。ですから地震が来ると、ズレてしまうことによって、地震の破壊力をやり過ごしてしまうと言うことです。(この事は図らずも、現代住宅の耐震実験で証明されてしまったという「事件」がありました。倒れなかった住宅のアンカーボルトが倒れてしまった住宅ほどしっかり止めていなかったために、建物が飛び上がってアンカーボルトから抜けてしまって、地震動をやり過ごしてしまった。)

そう、そこには古民家を建築構造の歴史としてみるという、新しい民家の見方がありました。この見解は確実に現在の建築界に繋がっており、近世民家が現代建築を、現在の構造界を照らし続けていると思います。

(パソコンで書いておりますので、指が滑って自分なりの逸脱もあるとは思いますが、書かずにはいられませんでした。)

                                            2o1o1o24

      建築をめぐる話・・・・・つくることの原点を考える   下山眞司        
      RC造の学校校舎
Aを見たのは「耐震補強」が叫ばれだした初めの頃、したがって10年以上前のことです。
これを見たときの私の感想は、なぜこんな危なっかしいものが「補強」になるのか、という違和感でした。
私には、もしも地震があったら、特に校舎に直角方向:短手・梁行方向:の揺れがあったら、「既存部」と「補強部」の境:接続部で破断を起こし、結果として既存部にも影響が生じるのではないか、と思えたからです。もちろん、校舎に平行の方向:長手・桁行方向:の揺れでも異常を起こすのではないでしょうか。
      「壁」は「自由な」存在だった
「礎石建て」になってから、すでに1000年はおろかそれをはるかに越える時間が過ぎています。
しかしその間、「一体に組まれた立体」を「礎石の上に置くだけ」ということには、何の変りがありません。
もしも、その方法に支障があったのならば、「掘立て」が「礎石建て」に移行したように、とっくの昔に、その方法は変更されて当然です。しかしながら、そのようなことは「気配」さえ窺われない。
ということは、
置かれる建屋が「一体に組まれた立体」であるならば、何ら問題がない、
ということの「実証」にほかなりません。
事実、現在遺されている事例がそれを証明しています。
      「在来工法」はなぜ生まれたか−5
では、なぜ「土台の基礎への緊結」が必要とされるようになったのか。
これには、「建築学者の誕生」と、彼らによる「筋かい」導入の提案が関係している。
昨年12月5日の「日本の建築教育・・・・その始まりと現在」で、1870年代初めに、建築の近代化=西欧化のための学校がつくられ、近代化を指導するエリートの養成が始まったことに触れた。当初の卒業生は、年に10人程度、まさにエリートである。これがすなわち「建築家」・「建築学者」の誕生である。
それ以来、現在に至るまで、日本の建築技術者には、従来の大工棟梁:「実業者」の系譜(12月10日記事参照)と、学校出の人たちの系譜の二系統が存在することになる(同時に、建築家・建築学者が実業者よりも優位との誤解も生まれ、これも未だに引継がれている)。
これもすでに触れたが、近代化を使命と考える建築家・建築学者は、当初、日本の建築およびその技術は捨て去るべきものと考えていたため、それらについて無知に等しく、また知ろうともせず、(12月29日掲載記事参照、現在はどうだろうか?)、それでいてなお、近代化へ向けて人びとを先導・指導することを使命と考えていた(この傾向も、一部に引継がれている)。
この建築家・建築学者たちを驚かせたのが、明治24年(1891年)の「濃尾地震」であった。大きな地震は、古来、日本では頻繁に起きていたのだが、彼らにとっては初めての経験だった。そして関東大地震はさらに彼らを驚かした。                                      
      「震災調査報告書」は事実を伝えたか


旧広瀬家住宅   原所在地 川崎市多摩区枡形7-1-1
            旧所在地 山梨県甲州市塩山上萩原
                   大菩薩峠から北西の山裾、笛吹川を遡ったところ、と栞にある、google地図で当たりを付けてみました。

甲州市から大菩薩峠の方向に上荻原雲峰寺を目印とした。川崎から地図上80km




等高線の混んだ山懐か


book紹介
    日本民家園物語 古江亮仁 多摩川新聞社 1996発行 2000円 取扱所 川崎市立日本民家園
    民家園解説シリーズ(栞) 編集発行 川崎市立日本民家園 1500円

     江戸東京たてもの園 解説本 1000円
     江戸東京たてもの園 綱島家移築工事報告書 1500円

関連 hp
    川崎市立 日本民家園
    関東の民家 旧広瀬家住宅
    日本民家園(Wikipedia