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      池上梅園 清月庵 (大正期 (1920?))

            設計川尻善治 Yoshiharu Kawajiri

             photo by mirutake 2013.03 2020.05 .09 2023.01







































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3.関連 hp

    池上梅園 (ウィキペディア)

    優れた建築文化を残すこと 〜平和への願いを込めて〜 大田区の文化遺産 池上梅園・清月庵
西田邸は、元は数寄屋建築施工家の川尻新吉、善治の住まいを兼ねた料亭として建てたものであり、大正初めに建てられたときは、1000坪あった庭園の中にたくさんの建造物があったそうです。大正時代は江戸職人の技術がまだ残っており、大工の伝統的な技が黄金時代だったそうですが、新吉氏は指物師から建築家になった人で、善治氏は数寄屋建築の設計、施工を手掛け、親子は北大路魯山人邸の他、大正から明治にかけての多数の名建築を残しています。全国から集めた銘木は驚くべきぜいたくさだったといわれています。清月庵も柱は孟宗竹、皮付のえんじゅの木、杉など、踏み込み床は桜の一枚板と、まるで木の饗宴です。


    湯らり気ままに温泉に 池上梅園の茶室


    池上梅園 茶室・清月庵


    池上梅園 梅園の誕生
池上梅園の北半分を戦前は、日本画家の伊東深水が所有し、自宅兼画室としていました。昭和20年に戦況が悪化し、長野県小緒に疎開していましたが、その2ヶ月後に空襲で自宅が焼失してしまいました。
伊東氏は築地で料亭を営んでいた小倉誠氏に土地を譲り、昭和24年に鎌倉に画室を新設し、移住したそうです。
戦後になると、南半分を小倉氏が別邸として拡張し、その後、小倉氏が亡くなり、ご遺族より庭園として残すことを条件に東京都に譲渡され、昭和53年に大田区に移管されました。
大田区の区花が「梅(ウメ)」だったこともあり、濃い桃色の花が咲く「紅梅(こうばい)」を中心に植林・拡張が開始されました。




4.https://www.google.co.jp/maps/ 清月庵